エルフィンナイト
沐浴をしていた鳥たちは一様に申し訳なさそうな表情を浮かべ、アンジュになだめられるエルフの少女に謝った。
そして、リンネが泣き止むまで数十分を要した。
「いやはや、いたいけな子どもの心を傷つけてしまい、申し訳ない。……お詫びと言ってはなんですが、われわれの野営地にお越しになりませんか? われわれは吟遊詩人の集まりでして、音楽やお話でおもてなしいたします」
「音楽と、お話……?」
アオサギの言葉に、リンネは恐る恐る顔をあげる。
「獣人で吟遊詩人とは、珍しいな。今の大陸で各地を巡るのは大変だろう」
「ええ、苦労もありますが、芸術を必要とする人はどこにもでいますからね。それこそ、人が立ち入らないような自然の奥地にも」
「先生の演奏が聴けるのは運がいいですよ! なんたってこの方は——」
「こら、こら、あたら権威を振りかざすなんて、芸術家にあらずですよ」
小柄な赤いインコ型の鳥が息巻いて言いかけた言葉を、アオサギはやんわりと制する。
クロトはリンネの顔を見て、「行きたいか?」と意思を問う。
リンネはすぐうなずいた。
「……よし。同行させてもらう。場所は近いのか?」
「ええ、この近くです。さっそく参りましょう——」
それから、クロトたちは鳥の吟遊詩人の一団に導かれ、彼らのキャンプ地へと移動した。
アオサギは、自分をホーマーと名乗った。リンネは、すぐに気がつかなかったが、彼の視力が弱いことがわかった。ふるまいや態度ではまったくそれを感じさせないが、ときおり、彼は眼鏡の奥で虚空を見つめ、そこからリンネの顔を探し当てたように見つめてくる。
彼に見つめられると、なんとなく落ち着かなくて、リンネはたびたびクロトの背に隠れた。
キャンプといっても、テントはなく、簡素に敷き布を敷いて、焚火跡の周りを囲んでいた。布にはクロトたちが見たこともない紋様の刺繍がされ、ところどころにあしらわれた色とりどりのビーズが宝石のようにきらめいている。その上には色んな楽器が載せてあった。
初めて見る楽器ばかりで、リンネは好奇心に目を輝かせてしげしげと眺めた。
「もうすぐ夕方ですから、お食事もご用意します。演奏は、その後に……」
アオサギはそう言って、弟子たちとともに夕餉の支度を始めた。
招かれたゲストとして、リンネ、クロト、セロニアス、アンジュは布の上に座り込む。
供された食事は、豆の煮物やとうもろこしのスープ、焼き魚、果物のコンポートなど、鳥が好みそうなメニューで、菜食派のリンネ以外の者も満足できる品ばかりだった。
世間話をしながら食事をした後、鳥たちはお茶を出してくれた。彼らは信仰上、禁酒を守っているらしい。ジャスミンの香りに、色んなフルーツの甘味と酸味がまじった、味わい深く、ほっとする味のお茶だった。
その頃、ホーマーは弟子に言って香炉に火を灯させた。お茶の香りに似ているが、それより落ち着いて、香木の香りがまじっている。それがあたりを包むと、不思議な心地が漂った。
リンネは、お腹が満たされ、お茶を啜りながら、その香りで深く胸を満たした。
なんだか、とっても特別な日みたいだ。
半ば陶酔していると、ホーマーの弟子たちがひとりずつ演奏したり、たまに合奏を聴かせてくれた。
その中でも、ひとりの弟子が物語を語った。
国を追われた王子が、全身が黄金でできた鹿を見つけて、それを持ち帰って王座に就くが、戴冠式の次の日に、黄金の鹿は、ただの鹿に戻っていた。臣民は落胆し、彼をふたたび追放した。失意の王子は鹿を連れて、ふたたびそれが黄金に戻る日を夢見るが、王子は鹿に夢中になるあまり、黄金色の朝陽が昇るのも、黄金色の野花にも、黄金と同じ色の髪を持つ娘のことにも気がつかず、この世のすべての黄金を見過ごして生きていったという……。
リンネは、うっとりとして話を聞いていた。
そして最後に、ホーマーが楽器を取り出した。
それも見たことのない楽器で、黒く艶のある持ち手から伸びた細長い先端に、弦が二本だけついている弦楽器だった。
「これは、ここよりさらに東の国の楽器です。二胡というのですよ。黄昏どきにふさわしい音色をしています」
そう言われて、リンネは顔をあげた。
沈みゆく太陽の橙色の光が、暗い雲とまじり合い、境目がわからなくなっている。
そこに二胡の響きが重なった。
高く、伸びやかだが、不思議なしなりのある柔軟な響き。軽やかさを感じさせるのに、どこかその高らかさが寂しげな気配を纏っている。
まるで、細長い月をそのまま爪弾いているようだ。
――リンネは、自分が空に浮かんでいることに気がついた。
広大な月が目の前に広がっている。半月が、残る半身を求めてさまようかのように黄色く輝き、周りの雲を照らしている。リンネの全身は、形のない空気に押し上げられ、ゆっくりと浮かんでいた。
透けるように薄い雲の下に、草原が見える——夜空の下で、草がたなびき、馬たちが走っている。彼らの蹄が踏む大地の奥底の響きまで、空に聞こえるようだった。
この星の呼吸音のような地響きと、彼らが巻き起こす風の声が、リンネの身体をさらに上へと巻き上げる。
リンネは、深い海の底にいた。
小魚たちの話し声——シャチたちの悪だくみ——が、ひそひそと深海の底に漂う。
サメのヒレが水を叩く音に、クジラの歌う声。色んな音が混然一体となって、海という大きな一滴の水の中で響いている。
さっきまで見上げていた月が、海面の向こうで輝いていた。
月の投げかけた光が、海の中で揺らめいている。
深海の奥底にいるリンネは、光の切れ端を掴もうと、手を伸ばした。
「生まれてくれて、ありがとう」
誰かの声がして、リンネは自分がその人に抱かれていることに気づいた。
なぜか、目が開けていられないぐらい重い。喉は何かが詰まったように窮屈で、声が出ない。
自分が夢の中にいると気がついたのは、そのときだ。
これ、赤ちゃんの頃のわたしだ。
だって、その人の腕はあまりに大きくて、リンネ自身をすっぽり包んでしまえるほどだったから。
そしてその人が男の人であることも気がついた。
でも、知らない人だ。群れの仲間の誰にも似ていない。
硬く骨っぽいが、滑らかな頬がリンネの頬に触れる。
「リィン——ネーデ——アルカ——ディアーテ——」
その人はまるで歌のようにそう呟いたのを聞いて、リンネは目を覚ます。
さっきまで夢を見ていたリンネの眠たげな顔に、朝の光が降り注ぎ、彼女の身体を受け止める草が柔らかにそよいだ。
一滴だけの涙が、そっと頬に流れて、すぐに乾いて消えていった。
「……おい! みんな、大丈夫か」
気がついたクロトが身を起こし、自分の身体の節々を触ってたしかめている。
全員の身体の下にあった布はなくなっていて、みんな草地の上に伏せていた。
楽器も、鳥たちも、どこにもいない。
微かに、香の匂いだけが魔法の残滓ように残っていた。
「ええと……私たち、騙されたんでしょうかね……?」
「荷物! 荷物を見るんだ!」
「金品はとられていないみたいだ」
バッグパックの中を覗いたセロニアスがそう言うと、クロトは気味の悪そうな表情を浮かべた。
「物取りでもないとしたら……何が目的で……? 身体に何かされていないだろうな……!?」
「い、嫌ですね……寝てるあいだに変な刺青とか入れられてたら……」
「クソッ!! 俺とセロニアスは向こうで服の下を見てくる!! お前たちも確認するんだ!」
憤懣もあらわに、クロトはセロニアスの腕を掴んで茂みの向こうへと消える。
アンジュはやれやれとため息をつくと、まだ夢見心地のリンネに近づき、服を脱ぐためにバンザイをさせた。そのとき、
「お嬢様? ……首から下がってる、それは……?」
言われて、リンネは胸に下がっているそれを見た。
オカリナだ。リンネにも見たことがある楽器だった。
インコの羽根ような青い陶器で、つやつやと輝いている。
思わずリンネはそれを手にとり、吹き口に口をあてて、ポー、と音を出した。
たくさんある穴を塞ぐと、まったくべつの音になる。
不格好な響きでも、自分で演奏できるのが嬉しくて、リンネは何度も音を出した。
「何もなかったか? ……なんだ、それは」
「わかんない」
そう言って、リンネは吹きつづける。
「おい、よせ……毒でも塗ってあったらどうする」
「物騒なこと言わないでください!」
「不思議な夜だったな……」
とにかくは、何事もなかったこととして、旅はつづけられることになった。
ふもとまでもう少しだ。クロトにはあまり良い顔をされなかったが、リンネはとにかくオカリナで色んな音を出し、自分なりに少しずつ仕組みを理解していった。
ぽっぽっぴー。
ぽっぽっぱー。
ぽっぴっぽー。
「…………」
歩きながら絶え間なく響くオカリナの音色に、クロトはだんだん顔色を曇らせた。
「おい、リンネ。それは俺が預かる。延々鳴らされるとこっちの耳がおかしくなる」
「ぴぽー!!!」
「音色で反抗するな!!」
オカリナをクロトに取り上げられそうになったリンネは、高い音色をあげて逃げ回る。
師匠の弟子の追いかけっこは、やがて体力のある幼子が勝利した。クロトの登れない高い木に登って、そこからオカリナを吹きまくる。
高らかに勝利の音色を奏でる弟子に、クロトは「くっ……なんて子連れと相性の悪い楽器だ……」と毒づく。
リンネは、オカリナを奏でながら、自分で出す音に夢中になっていた。
しかし、そのうち高い木の上から見渡した先に、武器を持った人間の男たちがいることに気づく。とっさにリンネは吹くのをやめた。音で居所が知れた、と思ったのだ。
だが、彼らは別の方角に向かっている。かなりの人数で、ただの巡回とは思えない。
リンネは木の上から師匠に呼びかける。だが、クロトたちもまたその気配に気がついていた。
「……あれだけの人数だ。あっちに気をとられてくれればこちらは楽に進めるが……」
「べつの道にも兵士が待ち構えているかもしれない」
「かなり大事みたいだからな……鳥の目を借りている暇もない」
「助けが必要な人たちがいるのかも!」
リンネは木から飛び降りると、兵士たちの向かった先に視線を据えた。
クロトは弟子の横顔を見て、小さくため息をつくと、誰よりも早く足を踏み出した。
「まあ、——成り行きなのはいつものことだ。行くぞ!」
その意見に、誰も異論は唱えなかった。




