山越え
「師匠、何してるの?」
山を越える道中、開けたところに出た途端、クロトは地面に座り込み、杖を立てた。
彼は静かに目を閉じ、瞑想しているかのような表情を浮かべていた。
「近くを飛んでいる鳥の目を借りて、連合の兵士がいないルートを探している……このまま進むと山道に戻って、巡回してる兵士とかち合うな。方角をずらそう」
「師匠、そんなこともできるんだ~」
リンネは感心しながら言った。
クロトは本当なら、鳥の目を借りるどころか、鳥自体に変身できるのだが、リンネが触りたがって仕事にならないと思ったからこっちに切り替えたのだが、それは秘密だ。
山に足を踏み入れ、しばらくすると雪がちらつくなるようになり、もっと歩くと雪原が見えた。
急な気温の変化に対応するため、リンネたちは冬用の厚手のマントやローブを羽織った。雪の上を歩くときのブーツも。
雪の上を歩くときは、ゆっくりと。滑らないように足がちゃんと雪の中に沈み込んでから、慌てずにもう片方の足で踏み込む。一歩一歩、ゆっくりと、だが着実に進んでいく。
クロトがときどき鳥の視界を借りることで、兵士の巡回ルートと被ることなく、旅は一見、順調なようだった。
だが、標高が高くなるにつれて、雪が厚くなる。正規の山道でもないため、雪の下は岩と土が隆起していて、足場が不安定になってくる。
そして、山頂から吹く風が雪を運んできた。
向かい風と雪で、視界と進路が同時に阻まれる。
あまりに風が強くなってくると、列の後方でアンジュが叫んだ。
「風が強すぎます——! 雪も——! まだ日は高いですが、どこかで休める場所を探したほうがよいのではありませんか——!?」
その先で、クロトは白く染まった峰を見つめていた。
「そうだな……楽観視して、うっかり遭難させられたら元も子もない。少し迂回してでも、安全な場所を——」
言いかけたクロトの前を、リンネが追い抜いた。
クロトは突然のことに驚いて、その小さな肩を掴もうと手を伸ばした。
「あそこ——! ねえちゃんがいるっ!!!」
雪道を走ると危険だ。クロトは弟子が転倒しないよう肩を掴んで制止たが、その手の中でリンネはもがくように身をよじって、前方を指さした。
無論、クロトも、ほかの仲間も、その言葉をすぐに信じられなかった。
だが、リンネが必死に「あそこ! あそこだよ!!」と懸命に前に出ようとしながら指さしている方角を見て、全員、目をしばたたかせることになった——。
雪で霞む景色の向こうに、誰かの姿があった。
いちめん真っ白の雪原に、長い金髪をした女性が立っている。
舞い踊る雪の中でも、その輪郭ははっきりと伺えた。
雪の破片に光る金髪は、昼間だというのに、月明かりのような淡い光を雪景色に投げかけている。まるで、雪道を迷える人を導くように――。
深緑の雫を垂らした碧色の瞳は、憂いを帯びて、太陽の光が湖底で揺らめいているかのような、不思議な静けさを彼女の美貌にもたらしていた。
リンネは、その懐かしい顔を追いかけようと、熱に浮かされたようにクロトの腕の中で暴れ始める。
「ねーーちゃーーーーん!!」
——そんなわけがない。
クロトは、すぐに事情を察した。
こんなに深い雪山なのに、彼女の衣装は平時のそれだ。
しかも、強い風が吹いているのに、彼女の髪はなびいていない。
雪の中に投影された、ヴィジョンのようなものだ。
(おそらく……このへんに棲んでいるレイスか何かか……悪趣味だ。親しい人の姿をして、迷わせようとしている……)
悪霊の思考が、生者に理解できるはずもない。
クロトは冷静さを失った弟子を後ろから抱き留めながら、落ち着いて語りかけた。
「落ち着け。あれは人じゃない。生きている者の心を惑わせ、楽しんでいる悪霊だ。このへんで遭難した者の末路だろう。よく見れば……わかるはずだ。あれはこの世のものじゃないことが、お前になら——」
リンネの背に合わせてかがみこみ、その肩に語りかけながら、クロトは彼女の姉の姿を騙る霊を静かに睨みつけた。
静かに微笑みかける顔に心を囚われていたリンネは、師匠の言葉にはっとなる。
彼とともに旅をして、リンネは魔法が何かを知った。
姉の姿によく似たそれが、魔法で再現された影にすぎないことを、リンネは徐々に実感していく。
クロトの腕の中で、リンネはもがくのをやめた。
「やはり、この近くで休憩はできない。危険を承知で——踏み越えるしかない」
立ち上がった彼の手に引かれるまま、リンネはその場を離れる。
リンネの姉——イオは、相も変わらず微笑んだまま、そこに立ち尽くしていた。
クロトに制止されなかったら、すぐにその胸に飛び込んでいただろう。
はっきりと目にしたことで、抑えていた愛着が胸の奥で疼き始める。その痛みにも似た疼きを堪えながら、リンネは瞳を潤ませ、片手を振った。
「これから——助けに行くからね——!! 待ってて——ねえちゃーん!!!」
リンネは力の限りに叫び、去りゆく幻影に手を振りつづけた。
アンジュとセロニアスは、リンネの幼くも気丈な姿に、心を痛めたかのように目を細めて、彼女たちのあとに続いていった。
やがて、クロトたちが立ち去った後、金髪のエルフの幻影は、真っ黒な髪の背の高い女性の姿に変わっていた。
その瞳は、紫水晶の輝きを宿し、彼らの目指す先を見通すように、いつまでもそこから見つめていた。
吹雪はだんだん激しくなった。
斜面に掘られた深い洞を見つけたクロトたちは、そこに入り込み、魔法の結界で雪を防ぐと、中で火を熾して寒さと戦った。
おそらく、過去に熊がねぐらにしていたのだろう。
中に苔が重なって生えていたので、長らく使われていないらしい。
毛布に包まり、なるべく仲間同士で身を寄せ合う。
そうやって夜を耐えていると、リンネが「なんか……昔に戻ったみたい」とこぼしたのを、寝つく寸前のクロトは聞いた。
「みんなでくっつくとあったかいね」
「……今日だけだぞ」
クロトがそう言うと、背中でリンネがいひひと笑うのが聞こえる。
「こんなのが、ずっと続いたらいいのになぁ」
「……お前の姉さんに会いに行くんじゃなかったのか」
師匠の答えに、リンネは少しのあいだ沈黙した。
「………永遠がいっぱいほしい」
「なんだ、それ」
リンネが突然つぶやいた言葉の唐突さに、クロトは思わず振り向いた。
クロトの肩にしがみつくようにして、リンネは師匠の顔を覗き込んだ。
「師匠たちと一緒にいたいし、姉ちゃんたちとももう一度暮らしたい……人生が何個もあって、それぞれが、永遠に続けばいいのに。そうしたら、好きなときにそれを行き来して、好きなひとたちとずうっと一緒にいたい」
クロトは、夢想家だな、と弟子に対して思った。
楽しい時間が永遠に続けばいいなんて、子どもらしい発想だ。
……クロトにも、そんな時間が、多少は、あったかもしれない。
肩にかかった弟子の腕に手を置きながら、クロトは静かに言った。
「………もう寝ろ」
「………うん」
こつん、とクロトの後頭部にリンネの鼻先がぶつかる。
こんなに弟子と近づいていいのかとクロトは一瞬思案したが、向こうでアンジュもセロニアスもリンネと肩を寄せ合ってくっついている。
べつに自分だけの問題ではないか、と納得して、目を閉じた。
一夜明けた。
外の世界には、陽光を雪原が撥ね返してきらきらと輝く朝が広がっていた。
雪が止んだのは好機到来だった。その隙に、昨日の遅れを取り戻して、クロトたちは歩きに歩いた。
日中は歩きつづけ、夜は身を寄せ合って眠る——ということを繰り返し、ついに彼らは山脈を乗り越えた。
ふもとに近づくにつれ、雪が軽くなっていく。
リンネは小川を見つけて、その澄んだきらめきに走り寄った。
「雪解け水だよー! 最高ー! 飲んじゃお!」
「おい、雪が薄くなってきたからって走るな……って、聞いちゃいないか……」
性急な弟子の背中に、クロトは呆れて肩を落とす。
やがてリンネは小川の前でかがむと、手で水をすくって口に運んだ。
やれやれ……とため息をつきながら、クロトはふと川上に目をやった。
「ふ~ん……♪ ふんふん♪ ふふ~ん……♪」
そこに、妙なる鼻歌が響いた。
音の源は——白い翼についた小さな鉤爪で水を掬い、肩の下にばしゃばしゃとかける鳥に近い人だった。
クロトは、その鳥型の獣人の沐浴を見て、目を大きく見開き——叫んだ。
「汚い鳥がわきを洗ってるぞーーーー!!!!」
クロトは駆け寄り、リンネが水を飲むのを止めようとした。
だが、リンネは川の水をすでに飲みほした後で、すぐに師匠の告げた現実の忌まわしさに気づき、激しくむせ込み始めた。
「げほっ! ごほっ!!」
「吐き出せ! 早くっ!」
「おんやぁ~? どなかたそちらに……」
クロトがリンネを介抱していると、その騒ぎに気がついたらしい鳥が穏やかに声をあげる。
そして、いそいそと長い脚を動かし、川を出ると、そこに置いていた衣類を身に纏い始める。
「すみませんねぇ~、お見苦しいところをお見せしたようで……」
ばさりとマントとフードを羽織った鳥は、長い脚とくちばしをした、うっすらと灰色みがかった青い羽根を生やしていた。顔にはちょこんと小さな眼鏡をかけており、穏やかで知性を感じさせる表情をしている。
だが、紳士的な態度をとられても、さっきまでわきを洗っていた事実は消え去ることがない。
クロトは若干警戒しながら、アオサギのような鳥のほうを見た。
「本当に見苦しすぎて、しばらくトラウマになりそうなんだが……」
「あっはっは! それは申し訳ない。きれいな水を見ると水浴びしたくなるのは鳥の性でしてね……」
リンネは半泣きになりながら、後から駆けつけたアンジュに水筒の水を飲ませられていた。
「先生! 何かありましたか?」
すると、小川の近くの茂みからぞろぞろと鳥型獣人たちが現れる。
姿かたちも様々な種類の鳥の顔をした五人ばかりのグループは、アオサギを見つけると声をかけてきた。
「ああ、きみたち。いや、どうやら〝われわれ〟が水浴びしていた先で、こちらの少女が川の水を口にしてしまったようで……」
〝われわれ〟……?
クロトたちは、その恐ろしい言葉を聞いて凍りつき、リンネは、ぴゅるるるる~~、と、噴水のように口の中の水を川に飛ばした。
さまざまな鳥たちがわきを洗っていた川は、穏やかにせせらぎ、遅い春の訪れを喜ぶようにきらめいていた……。




