決闘
「師匠! アンジュを止めなきゃ……!」
「わかっている。お前は俺から離れるな」
不安そうにする弟子とともに、クロトは中空を舞うアンジュを見上げた。
彼女の赤い瞳は煮え立つマグマのように燦々と燃え上がり、怒りの感情一色しか浮かべていない。
「セロニアス!」
主が名を呼び終わる前に、セロニアスが魔族に剣を振り下ろした。
宙を舞うアンジュの攻撃を避け続けていた魔族は、その一撃に不意を突かれたかのように見えた。だが、頭上から降ってきた剣の刃渡りに、魔族の男は振り向きもせずに片手を添わせる。
腕が黒い霧状に変化し、大量の蛇の群れとなってセロニアスの刃に向かってきた。
「≪呪言・格配列・発動≫!」
しかし、すでにセロニアスとクロトのあいだで魔力の共有はなされている。
クロトが呪文を放つと、セロニアスの刀身が光り輝き、闇色をした蛇たちをその輝きで焼き払った。
強い光に魔族も目が眩んだかのようによろめく。その隙を逃さず、セロニアスは剣を振り抜いて男の上半身を斬りつけた。
切り裂かれた胸から血しぶきが飛び散る。
「呪言、だと……!」
胸を押さえ、己の血にまみれながら、魔族は不敵な微笑を浮かべた。
「この時代の人間が、まさか呪いなどという古典的な代物に縋るとはな……! だが、他者を呪い、縛りつけ、支配下に置くことを望む——まさに人間らしい矮小な欲望の発露だ! 呪いとは、魔術の礎が築かれるより遥かに旧き因習に囚われた悪のまじない——その業を、この時代になって呼び起こすか!! つくづく笑わせてくれる!」
己が痛みなど感じないかのように哄笑する魔族の言葉に、リンネを後ろにかばいながらクロトは静かに眉を寄せた。こいつは、〝呪い〟がなんたるかを知っている。間違いなく古代以前から存在する魔族だ。
なぜなら、クロトがセロニアスと魔力を共有するため使用している魔術は、古代に発展していた呪術を応用したものだ。古文書を発掘したクロトが自己流に書き換え、相互の魔力を分け合う術に改変したが——元は、一方的な魔力の搾取を目的とした呪いだった。
現代では、魔力によって肉体と精神に直接干渉するもの——病魔をもたらしたり、狂気に陥らせたり、生理的欲求を操ったり、記憶を奪い去るといったたぐいの術は呪術と分類され、魔術師のあいだでは禁忌とされている。
この呪いも、もとは奴隷などから魔力を搾り取るために汎用されていたものだ。
「マスターは俺を呪っているんじゃない。これで俺を救ってくれた」
剣を構えて牽制するセロニアスは冷静なまなざしで応えた。
戯言と言わんばかりに魔族は冷笑したが、セロニアスはそれ以上踏み込まない——竜の次の咆哮まで繋ぐのが彼の役目だった。
「消え去れええぇ———ッッッ!!」
黒竜の放った黒い衝撃波が、セロニアスの飛び去った地点に着弾する。
血を流す魔族はその中心に呑み込まれた。黒い嵐のように渦巻く魔力は爆発的に広がって、村のすでに残骸と化した家畜小屋を吹き飛ばし、更地にした。
(やったか———いや、違う、こんな、単純な……)
マントを広げ、衝撃の余波から弟子を守ったクロトは、己の希望的観測に満ちた予想を後悔する。
古代より生き延びた魔族が、こんなたやすく敗れるはずがない。
クロトの予測を嘲笑うように、嵐の過ぎ去った中心から黒い何かが疾風のように押し寄せてきた——大量の、蛇だ。片腕を変化させて生まれた量とは比べ物にならない。まさに高い津波のように押し寄せてきた蛇たちは、セロニアスの全身を絡めとり埋め尽くすと、後方にいるクロトにまで迫ってきた。
「師匠! パイセンがぁ——!」
「落ち着け! あいつは俺の魔力の守りがついてる!」
クロトは手足に食らいつこうとする蛇を杖で叩き潰しながら、背中に縋りついて悲鳴をあげる弟子をなだめてゆく。
魔力を込めた打撃で焼き切れた蛇たちは影も残さず消え失せていった。
セロニアスもまた、クロトによる魔力の供給で蛇たちを消滅させる。
地獄のような光景は一瞬で終わったかに思えた。
だが、クロトはふたたび魔族のいた中心を見て、目を見開く。
そこには何もいなかった。
敵の姿は、すでに遥か頭上にあった。
「なんだ——あれは…………」
黒い翼が空を覆い尽くしていた。
広大な影が地上に差して、クロトたちの面差しを曇らせる。
それは、黒い竜だった。
しかし、アンジュのようなブラックドラゴンよりも遥かに巨大で、首は蛇身のように長く——また、女の長い黒髪に似たたてがみが、意思を持っているかのごとくぬらぬらと艶めきながら揺れている。
確かにそれは黒い竜のようであったが——竜と呼ぶには、あまりに禍々しすぎた。
「ニーズヘッグだよ!!」
しきりにマントを引っ張り、リンネが声をあげる。
クロトが振り向くと、リンネは抱えていた荷物の中から急いで厚い本を取り出し、性急な手つきでページをめくる。
「――これだよ! 『邪竜ニーズヘッグ。六竜にあるまじき呪われた生物。死者の血を啜り、多くの蛇とともに暮らす。神々の宿敵だったが、神々の終末をも生き残った』って!!」
クロトは、リンネが広げてみせたページを見て絶句した。
今まで見せられた姿と一語一句違わず符合する記述と、挿図に描かれた長い首に、人間の黒髪のような不気味なたてがみを生やした姿が、これ以上なくあの怪物の正体を物語る。
リンネから本を受け取り、ページを凝視しながらクロトはわが目を呪った——あれは、神話の世界を生き残った。古代どころではない。神代の世界から現代まで生き延びた、悠久の時を生きる邪神に等しい化け物だ。
クロトの総身を寒気が襲った。
勝てるのか。神話時代の生物に。
「――呪いとは、魔術よりも古い。生けるものが死せるものに変わりゆくとき、魂に刻みつけられた怨嗟と苦痛が昇天の間際にこの世に放たれた瞬間、〝それは〟は生まれた。己以外のすべての生けるものを恨み、憎み、果てのなき苦痛と速やかなる死を願う思念——それこそが、呪いの本質だ」
竜に似たおぞましい何かは、ゆっくりと巨大な顎をひらき、それ自体が呪いかのような低い声を天より響かせた。
「生者どもよ——恐れよ、そして、跪け——世界を否定する力の前に!!」
耳を塞ぎたくなるような宣告の言葉ののち、禍々しい竜は両翼を広げて全身から黒い衝撃を放った。
「――≪残穢なる咆哮≫!!!」
そのあまりに巨大な力を前にして、クロトは杖を構え、己とセロニアスに魔力を注ぐこと一点のみにしか注意を払えなかった。
天から降り注いだ黒い力は、廃墟となった村を一面の暗黒に変えた。
木々も、大地も、村に転がった死体も——すべてが黒一色に染まると、まるで焼け焦げた炭が砕けるように掻き消えてゆく。
存在自体が無に帰したかのように。
「くそ……!! こんな――存在が、今頃になって………!」
とっさに魔力を充填したことで、クロトたちは呪いの一撃から身を守ることに成功した——かに思えたが、クロトは杖にしがみつき、膝をつく。
「師匠……っ! 大丈夫……!?」
リンネにかけた結界を重点的に守ったせいで、必然的にクロトは己の守りが手薄になった。
物質を否定し、無に帰す呪いは、魔力の防壁で直撃こそしなかったが、クロトたちから確実に大量の生気を奪った。手足に血が巡らず、軽く麻痺したような感覚が襲って動けない。
セロニアスもまた、己が剣を支えに立っているのもやっとかのように喘鳴していた。
「マスター……! あいつは空だ、分が悪い……!」
「わかっている……!」
息を切らし、肩を揺らしながらセロニアスが放った言葉に、クロトは首肯する。
だが、一応こちらの陣営には、あれと同じく宙を移動できる強大な古代種がいる。
「また………お前は、そうやってすべてを死に至らしめる……!!」
巨大な邪竜と相対すべく、気流を上昇したアンジュは、怒りに震える声でつぶやいた。
「お前が——死をばらまくせいで、わが一族の名誉は穢された!! 竜と呼ぶにもおこがましい分際で、お前が黒き竜として伝わるせいで、わが一族の者は殺され、骨になっても晒し物にされる!! お前が! そんな無様な竜の成り損ないのせいで!! みんな殺された——!!!!」
アンジュの絶叫が大気を震わし、地上のクロトたちの鼓膜にも痛々しく響いた。
(そうか……やつの凶行を見た者が黒竜と誤認し、噂が広がってあのドラゴンが攻撃されたか……一族にまで被害が及べば、ここまで激高するのも当然か)
立ち上がることも難しいクロトを見かねて、リンネが彼の肩を支えた。
弟子の介添えでゆっくりと立ち上がったクロトは、睨み合う黒い影同士を見上げて、歯の奥を噛んだ。
「こ……こいつはひでえ……村が……巨大な穴になっちまってる」
近くで声がして振り向くと、村で声をかけてきた兵士の男だった。
アンジュの最初の一撃で討伐隊は散り散りになったが、男は責任を感じたのか戻ってきたらしい。
黒い巨穴を穿たれた村の亡骸を見て、男は茫然と立ち尽くしている。
「おい——真相はわかっただろう! 村を壊滅させてきたのはあの六竜の血族ではなく、あれによく似た邪竜だ! 即席の戦力では到底敵わない! 王国の——連合の戦力を投入するよう警備隊の本部にかけ合え!!」
最悪の事態に発展した以上、クロトは敵対する勢力の存在も認めざるを得ない。
これは、一介の冒険者が立ち向かうモンスターの域を超えている。相手は、神話時代の怪物だ。国家単位の戦力を投じて——それこそ、〝勇者〟と呼ばれるような人知を超えた強さを持つ者がいて、ようやく対等に戦えるかというほどだ。
男は戸惑ったようにうなずくと、近くにいた仲間たちにも呼びかけ、この地を撤退してゆく。
その後ろ姿を見送りながら、クロトはこの地であれを食い止める覚悟を決める。
そばには無力な弟子がいる——彼女を守りながら戦い抜くということは、非常な劣勢を強いられる。だが、ここで師匠が戦わねば、弟子は守り切れない。
クロトはリンネに、己のマントの内側に入るように言った。
マントをめくって、中に飛び込んだリンネは、全身にそれを巻きつけて震えている。
いや、震えているが、震えを押し殺そうとしている。
師匠に、自分の震えが伝わらないようにだ。
(無念だが、こうするほかない……)
マント越しにリンネの頭を押さえ、自分の背中に回しながら、クロトは杖を握る手に力を込めた——こんなところで、人類の最終防衛戦線が生まれるとは、予想もしていなかった。
「セロニアス! まだ戦えるか」
「……ああ、大丈夫だ。さっきより痺れも薄らいできた……」
地に剣を突き立てたセロニアスは、それを引き抜いて、両手に構えた。
その遥か頭上では、アンジュが邪竜に向かって疾駆していた——瞬時に距離を詰め、長い首に食らいつく。だが、邪竜に比べて何倍も小柄なアンジュの顎では、首の表皮を切り裂くことしかできない。
邪竜は長いたてがみごと首を振り、食らいつくアンジュを振り払った。
首から振り落とされ、引き離されると、アンジュは急いで翼をはためかせふたたび突撃しようとする。
しかし、そこに邪竜の長い首が振り抜き、頭部がアンジュの胴体を殴りつけた。
アンジュを襲った一撃は、破城槌のように強烈な打撃で、固い鱗を易々と通り抜け、臓腑にまで響くような鈍痛を与えた。
弾き飛ばされたアンジュは、 「グルルルル……ッ!!!」と唸り声をあげながらなんとか翼を広げて重力に抗う。
そのとき、巨大な闇がアンジュの頭上から襲ってきた。
邪竜が巨大な顎をひらき、アンジュを狙う——その虚ろな両顎の中は、なんの色も持たないヴェンタブラックの宇宙のような深淵を宿していた。
竜の苦痛に満ちた絶叫が、空じゅうに響いた。
「アンジュ―――!!!!」
地まで響くアンジュの苦痛の声に、リンネもまた耐え切れず叫ぶ。
アンジュは邪竜の顎に封じられ、鮮血をぼたぼたとこぼしながら抗っている。
その抵抗を嘲笑うように、邪竜は顎を閉じ、みしみしと黒竜の鱗を砕き、アンジュを嚙み砕こうとする。
「――グルルルルアアアアア!!!」
声にならない咆哮とともに、アンジュの血に濡れた身体が光り輝いた。
アンジュの身体は黒い魔力に包まれ、衝撃とともに邪竜の顎の中で爆発的なエネルギーを発する。
その瞬間、邪竜の下顎が破け散った——黒い血を大量に流し、邪竜が痛みに首を振り回す。
邪竜の口の中から出てきたのは、人間の姿に黒い翼を生やしたアンジュだった。
片腕は黒い鱗を生やし、巨大な鉤爪を宿した竜の腕と化している。
邪竜の牙が届かない人間の姿になりながらも、部分的に竜化し、下顎を一点突破で突き破ってきたのだ。
しかし、彼女のメイド服は血にまみれ、竜の腕以外の手足は力なく宙に垂れている。
「お前だけは……!! 私の手で……!!」
赤い眼光に憎悪を浮かべながら、竜の少女は血にまみれた身体を震わせた。
下顎を砕かれた邪竜は血を流しながら、喉の奥から声を振り絞る——。
「ハッ——ははははは!! なんだ、その無様な戦い方は!! それが誇り高き竜とやらのやり方か!? 蔑む人間の姿に成り下がってまで、勝利を得たいか——! 承知した! その覚悟、しかと堪能させてもらった!!」
この期に及んでも、邪竜は狂気そのものの笑いをあげた。
げたげたと地獄の亡者たちが一斉に哄笑したかのような大音声を空に響かせ、血を撒き散らす。
地上には二匹の竜がこぼした鮮血が、巨大な血だまりを生んでいた——。
「誇りを抱き——地に屈する屈辱にまみれ——そして、死ぬがいい!!!!」
邪竜は血の噴き出る顎をひらくと、そこから黒い闇の吐息を放出した。
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