戴冠
ランカとリンネの頭上で渦を巻いていた黒雲の中から、羽根がいくつも落ちてきた。
色とりどりの羽根のシャワーを頬に受けながら、ランカは信じられないものを見るように空を見上げる——鳥たちが、鳥の翼を生やした女たちが、舞い降りてくる。
「うそ………」
星々の光を受けながら、ハーピーたちの鮮やかな羽根がかがやいている。
まるで星が落ちてきたように光が尾を引いて、彼女たちの尾羽が光っている。
ランカたちの目の前に現れた群れの中から、ひとりの厳めしい顔をした年嵩のハーピーが前に出た。
その鋭い鉤爪の先端には、金と銀とルビーの精緻な細工がされた冠が握られていた。
「われらの王女よ——戴冠の時です」
女はそう言って、翼も鉤爪もないやせっぽちの少女の頭に冠を載せた。
頭に乗った確かな感触に、ランカは魂を抜かれたように虚脱しながら、弱々しく呟く。
「うちは……王女なんかじゃない……まず鉤爪も、翼もないのに」
自信なさげに呟くランカに、女は優しく笑いかける。
「おや? そうでしょうか?」
「ランカおねーちゃん!!」
そのときリンネも叫んだ。
王冠を放棄しようととっさに両手で掴んだランカは、両肩のあまりの重さに驚愕した。
ずしんと重量を増した背中の内側で、何かが這いまわるような気色の悪さが生まれたが——それは一瞬だった。
「あああああっ——!!」
何かが弾けるような解放感がランカの全身を満たした。
背中から急速に生え、服の中に収まりきらずに布を突き破ったのは、ランカの身長を遥かに上回る大きさの翼だった。
次にランカが捉えたのは、指先の熱さだった。
人間の殻を破るように、爪先が割れて、ダイアモンドのように硬質で力強い鉤爪が現れる。
足の爪先も同じように、猛禽類のような鋭い鉤爪を宿していた。
急速な成長に耐え切れず、悲鳴をあげた皮膚からはぽたぽたと血が流れたが、その身体の中を満たしたのは、力がこみ上げる感触だった——。
「あ………あぁ………!!!」
ランカは己の身体の中で、熱い力が押し寄せるのを感じた——。
その瞬間、彼女の痩せた身体が膨れ上がり、バネのようにしなやかな筋肉が隆起する。
背筋は伸び、手足はぐんぐんと伸びて、いつの間にかランカは目の前のハーピーの女よりも高い目線を手にしていた。
すぐ隣で、リンネはぽかんと口を開いたまま、驚愕していた。
「おねーちゃん……ほんとに、お姫様だったんだ」
その言葉を聞いて、何よりも信じられないのはランカだった。
強さを秘めた鉤爪、長い手足と全身に張り巡らされた筋肉——何より、身よりも大きな背中の翼。
「あんなの……おとぎ話だろ……?」
わなわなと鉤爪を震わせ、ランカはこれは夢だときつく目を閉じた。
母親から繰り返し聞かされたおとぎ話が、リンネの言葉で新たに編まれた――その次の瞬間には、本当に仲間が迎えに来て、自分を女王と崇めるなんて、都合がよすぎる。
「違うよ——全部、ほんとだよ!! おねーちゃんは、これからその翼で、ベベーネさんを迎えに行くの!!」
その名前を聞いた瞬間、ランカの意思に反して彼女の翼が、ばさり、と広がった。
「っ~~~~……!!!!」
眼の奥で熱い涙がこみ上げる。
ベベーネに、会いたい。自分が女王とか、そうでないかとか、わからない。でも、それだけ——もう、言い訳はできない。
彼女を迎える翼は、ここにあるのだから。
「われらが女王よ——悪しき影がこちらに」
家臣のハーピーが、険しい視線を街中に投げかけた。
城から飛び出してきた黒い影は、次々と色んな魔物の形に姿を変え、逃げ惑う人々を呑み込みながら大きくなっていく。
その進路は明らかにこちらに迫っていた。
ランカはその悪夢が形をなしたような黒い影から、悲鳴が立ち上るのを聞いた——数多くの男と女、そのどちらでもない者たち。数多とひしめく悲鳴の中から、ベベーネの悲鳴を、聞いた。
「違う! ――悪しき影では、ない——」
ランカはすっと腕を伸ばし、翼で示す。
「あれは——わが伴侶ののたうち回る姿だ! 助けに行く!!」
「御意に——」
その言葉に、その仕草に、すべてのハーピーが首を垂れた。
ついリンネもつられてお辞儀してしまいながらも、ランカに首根っこを掴まれて「わっ!」と声をあげてしまう。
卵を傷つけず持ち上げるような器用な持ち方で持ち上げられたリンネは、ランカの広い背中に乗せられて、そのまま彼女とともに空へと上がった。
まるでランカは最初から扱い方がわかっているかのように翼を羽ばたかせている。
ランカは、凄まじい速さで宙を飛翔した。黒い影を目の前で捉えるまで、リンネは一瞬に感じられた。
黒い影は、大蛇となって巨大な尾を大通りに叩きつけていた。その黒い波となって押し寄せた尾に、何人もの人々が吸い込まれ、さらに影は大きさを増していく——。
が、突然、黒い影は波打つように身を竦めた。
たくさんの人の悲鳴をその身から発しながら、狂おしげに転げ回り、辺り一帯の建造物を壊した。
その悲鳴の中に、リンネは自分の師の声を聞いた。
悲鳴ではなかった。
痛みを叫ぶような——それでいて、傷ついた己を鼓舞するような覚悟のこもった声。
あの中で——師匠は戦っているんだ。
苦しみながら、戦ってるんだ。
ベベーネさんと、たくさんの人を守るために……!!!
ぶわりと熱いものが目と胸の奥にこみ上げた。
彼がそうする人間だと、すでにリンネは教わっている。
「―――師匠!!!!」
こみ上げる感情のままに、リンネは叫んだ。
空にリンネの声が轟くと、明らかに影の動きが弱まる。
壊れた建物にもたれ、うねりながら、弱々しい悲鳴を吐き出す。
その瞬間、影の脳天が裂けた——光が溢れ、迸る。
「師匠の——魔法だぁ——!!」
こんな都市すべてを照らすような強い光を持っている者は、ひとりしか知らない。
一瞬、夜が消し飛ぶほどの強い光を放って、影はそこからふたつに裂けた。
だが、すぐに光は途絶え、影は見る間に裂け目を閉じていく。
何度となく内側から光が訴えているのに、影は自らを閉じて、光を闇で覆い尽くす。
そんな——、とリンネは絶望を口にしかけた。
それが空気に音となって伝わる前に、一振りの斬撃が影を断ち切っていた。
「パイセン——!!」
「――マスターがこの中にいるのなら——」
天から降ってきたセロニアスが大剣で影をふたつに割る。
だが、凄まじい速さで修復していく影の海にセロニアスの足元は沈み込み、閉じてゆく闇の帳に呑み込まれそうになった——。
「俺が——引き上げる!!」
セロニアスは叫ぶと、全身から魔力を放出した。
彼自身は、自らの意思で魔力を扱うことに慣れていない——だが、すぐ近くで呼応してくれる存在を確かに感じていた。
彼ならば受け止めてくれるということを信じて、セロニアスは己の持てるすべてを解き放つ。
閉じていきつつあった影が急速に引いていった。
セロニアスは、蟠る影の中に光る何かを見つける——鋭い視線でそれを見抜いた彼は、影の海に自らの拳を突き入れ、潜り込ませた。
「――マスター!!!!」
そう叫んで引き上げた腕は、黒い杖を掴んでいた。
その杖を握っている身体ごと引き上げて、セロニアスはうねる影の海から身を起こした。
「師匠——!」「マスター——!!」
同時に自分を呼ぶ大声に、クロトは渋々といったように目を細めて——。
「……うるさすぎて、寝てる暇もない……」
その片腕で、エリザベスの肩と、彼女が抱いたベベーネの身体を引き上げる。
彼女の姿を見た瞬間、ランカも叫んだ。
「ベベーネ!!」
だが、彼女は目を閉じたまま動かない。
エリザベスの腕の中で苦しげに呻きながら、彼女はまだ悪夢の中をさまよっていた——。
勢いを取り戻した闇が、再び大きな口を閉じようとしていく。
セロニアスが両腕でクロトの腕を引き上げて、クロトはふたりの夢魔を引き上げようとするが、影の悪夢の根源であるベベーネが眠っている以上、影の再生を止められない。
「起きて——もう、起きていいのよ! あなたは現実の世界でも、十分に幸せになれるはずだから……!!」
エリザベスはその肩を揺さぶって、必死に呼びかける。
そのたびにベベーネは唸り、歯軋りして、苦しみを深めていく。
その苦痛を浮かべた寝顔を見て、ランカは自然と口ずさんでいた。
彼女が生まれて初めて聞いた歌を。
夜のしじまにいとし子は眠る
母親たちはその子の顔を眺めている
空の冷たく清らな星々も、そのときは赤子の寝顔を見ようと
額を押し寄せて窓を覗き込む
ああ、星のかけらが落ちてきた
かわいいあの子のまぶたに、涙のひとしずく
赤子はただ眠りけり――星々のまにまに、夢が浮かぶ
空を飛ぶハーピーすべてが、歌っていた。
都市すべてをひとつの歌が包み込む。この世界が見る悪夢で傷ついた人々を癒すように。
「あ………ああああああああ———」
呻き声。だが、苦しそうではない。
歌声に包まれた身をぶわりと震わせて、目を開いたベベーネは、その青い瞳に涙をいっぱいに溜めて——、
「わあああああああああーーーーー———ん……」
生まれたばかりの赤子のように、泣き喚いた。
悪夢から覚めたベベーネの周りから、闇が退いていく。
ちょうど、朝陽が昇ろうとしていた。
影を焼く朝の光に、悪夢はすっかり消し飛んでいた。
街のあちこちで、悪夢から解放された人々が意識を取り戻し、街は少しずつざわめきを取り戻そうとしている。
その中心地で、エリザベスの胸の中で泣きじゃくるベベーネのもとに、ランカが舞い降りて、駆け寄った。
「ランカ……なの……?」
目いっぱいに涙を溜めた彼女は、成長して凛々しくなったランカの姿を見て、信じられなさそうにまばたきした。
ランカは少し恥ずかしそうに、だが大切な人の頬にそっと鉤爪の背で触れる。
「そうだよ、ベベーネ」
エリザベスは両腕を広げて、自分の胸から出ていくベベーネの背中を茫然と見ていた——。
自分はあの子のために、何をしてやれただろう?
涙ながらに抱き合う女たちを見つめて、空しさすらこみ上げてくる胸を押さえるエリザベスはふと隣に、誰かの気配を感じた。
「お前も、最後は本人の幸せを尊重してやれたじゃないか」
魔力の浪費に疲弊しながらも、いまだに彼の瞳からは生きるための力を感じた。
彼は杖の先で、エリザベスの腕を小突く。
それだけでエリザベスは、自分が泣きそうなのを堪えていることに気がついた。
「そうね——アタシも、結局——〝快楽の絶頂〟が好きだもの」
「何かおかしな響きをしているが……まあいい」
「ししょう! ししょーうっ!!」
喜びの声をあげながら、ぴょんぴょんと跳ねてリンネがクロトのもとにやってくる。
勢いをつけて飛び込んでくる弟子を正面から受け止めたが、後ろに倒れそうになったところを、セロニアスの腕が支えてくれた。
「師匠~~!! よくわかんないけど、よかったよ~~~!!!」
「……お前こそ、よくあの中に俺がいるとわかったな」
「師匠の魔法は派手だからわかるもん!!」
「ああ、世界で一番派手で痛快だ」
ふたりを同時に抱きながら、セロニアスが頷く。
呆れるクロトの腹に頬ずりして、リンネが「うんっ!!」と笑顔で言った。
その瞬間、リンネは空の端に滲む黒い影を見つけた。
クロトたちも遠い空に浮かぶ気配に気づいたかのように一斉に緊張を滲ませる。
「あれは………帝国の飛竜だ!」
朝陽に銀色の鱗を輝かせ、翼を広げる飛竜たちの姿を捉えたクロトは叫んだ。
ハーピーの群れは戦いの予感にざわめいて、勇ましく翼を羽ばたかせた。
だが、ランカは違った。
その腕の中にベベーネを抱き、空を駆け上がったランカは、群れとは正反対の方向を飛んでいくと、叫んだ。
「――あれは、われらの敵ではない!」
そう言って、空の彼方を目指して飛んでいく。
女王の一声に、群れは一瞬で警戒を解くと、彼女の背中に向かって飛び始めた。
「魔術師さーん!!」
遠のくランカの腕の中から、ベベーネが地上に向けて叫んだ。
「帝国の貴族のもとから、エルフたちが逃げ出したって裏社会でちょうど噂になってたわー! 彼らはきっと、帝国にはいないと思う——!!」
なぜ彼女がそれを知っているのか。クロトは疑問にも思わない。
ベベーネは、身請けされ退いた後も、悪夢を見ているあいだも、生き残った精神の一部でクロトと対話していたのだ。
信用に値する相手かどうか、彼女は見定めていたが——どうやら、クロトはそれに足る存在だと認めてくれたらしい。
クロトが杖を振って応えると、リンネもまた空に向かって両腕を振った。
「『ずっとずっと——ずぅっとずっと、ふたりは幸せに暮らしました!』」
そう言って飛んでいく翼を追いかけ、リンネは声を嗄らすほどに彼女たちに語りかける。
「ああ、そして——ハッピーエンドだ!」
「私たちが望む限りね——!」
ランカとベベーネもまた、声の限りに叫び返した。
彼女ふたりは遠ざかるリンネにいつまでも、その金色の頭が黒い点となって、やがて見えなくなるまで手を振っていた。
「ランカ」
「ベベーネ」
愛しい名を呼び合い、ふたりは空の中で見つめ合うまま——唇を重ねた。
群れの女王と、その伴侶を先頭に、翼ある女たちの凱旋は空の果てまで続いた。
新しい女王の君臨と、新しい時代を言祝いで。
鳥たちの歌声は、どこまでもどこまでも——響いた。
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