強襲
クロトは杖をかざし、口の中で呪文を唱えて放出される霧のような魔力から身を守った。
通常の夢魔は、夢を通じて人間の精神に介入し、その者の意思を奪う。だが、エリザベスは、夢魔族を統べる女王にして、前魔王軍の幹部、四天王のひとりに任命されたほどの実力を誇る――彼女の戦い方は、夢を通じてなんて生易しいものではない。
「往時渺茫としてすべて夢に似たり――」
エリザベスは謳うように言葉を宙に投げかけた。
その瞬間、クロトの周囲で空間が歪んだ。
部屋じゅうに立ち込めた魔力の霧は、クロトの意識ではなく、この現実の理を書き換える。
「≪逆夢跋扈≫!!」
エリザベスの全身から、ぶわり――と大量の蝶と蛾の群れが湧き出し、彼女の姿は掻き消える。
衣擦れのような麗しい羽音を立て、嵐のような虫たちの群れはクロトの身体に纏わりつこうとする。
クロトは杖を振り、火を噴き上げて虫たちを追い払った。
蝶と蛾の群れは桃色の空間の四方に霧散し、遠い彼方で煌々と光る星々に身を変えた――一瞬にして、クロトの周りに広がる世界は桃色の宇宙と化す。
彼自身――目の前の景色に対し、そう認識せざるを得ないのだ。
「十年前と何も変わらないな! お前の手口はわかっている。自分の精神が支配する世界に敵を引きずり込み、自我を崩壊させてゆく――代わり映えのしない手品だ」
だが、クロトは自身の認識を書き換えられたと自覚していても冷静だ。
十年前、彼女と戦ったときの記憶は失われていない。あのときも、たびたび自分たち旅の一行の前に現れては、この夢の世界を創り上げてクロトたちを翻弄した。
「だが――お前の夢の世界は現実あってのもの! 現実との接点を完全に断ち切ることはできない! たとえば――窓だ!」
クロトの叫びに呼応して、硝子の砕け散る音とともに、星々の映し出す世界に穴が穿たれる。静かに眠る街の夜景が窓の形とともに浮かび上がった。その硝子の砕けた窓辺をめがけて、クロトは走り出す。すると、空間が震動し、どこからともなく嬉しそうな女の笑い声が響いた。
『うふふふ――おねーさんとの戦い、覚えていてくれて嬉しいわぁ♡』
クロトは硝子の破片から己を守るように杖を前に掲げ、窓辺から身を投げ出した。
夢は夢であり、完全な現実ではない。十年前のクロトたちはそれに気づけず苦戦した。
だが、確かに高い建物から飛び降りた感覚のあったクロトは、奇妙な浮遊感が続くことに気がついた。
「――ッ!!」
『でも――おねーさんだってただ寝てたわけじゃないのよ。エーテルを漂いながら、アタシは自分の生命の根源である〝精神〟を拡張するすべを身に着けた』
クロトはそのまま落下し続ける。
周囲は桃色の星々の空間そのまま。夢の世界には上下左右や天地の概念などない。
『〝夢〟は――増殖する! 夢を見ながらその中で夢を見るように――! 夢は終わらない! 〝それ〟を知る者の前では!!』
エリザベスの勝ち誇った笑い声が響く空間で、クロトは舌打ちした。
おそらく――エリザベスは夢の世界を移動させている。クロトに焦点を当てたまま、絶えず夢の世界を新たに展開し、現実との接点をずらし続けているのだ。
たしかに十年前より、彼女の魔力は成長しているらしい。
落下してゆく感覚に自由を奪われたクロトだったが、その口元にはうっすらと笑みがこみ上げていた。
落ちながらにして、彼は杖を手にしたままの状態を維持していた。
「人間にとっての十年がどれほどの時間か――お前にはわからないだろう、エリザベス」
彼女の笑い声が途切れた。
その瞬間、クロトの黒いマントが羽ばたく――彼がまばたきした瞬間、その瞳は金色を帯びた猛禽類の眼光へと変わり――身体は小柄だが灰色の羽毛の下には精強な筋肉を秘めた、力強い翼を生やしたハヤブサへと変わる。
『な――っ!?』
夢魔の戸惑う声も遠く背後に、クロトが姿を変えたハヤブサは鋭い咆哮をあげながら宙を切り裂くように飛翔する。その速度は尋常ではない。
望遠鏡のように遠くを見渡すクロトの猛禽類の瞳の中で、桃色の空間はおぼろげになり、現実の世界が二重映しになって浮かび上がる。やはり――予想通り。
(あいつの創る夢は人間専用だ! 鳥の目には――映らない!)
夜空を羽ばたき、クロトは夢の果てを追いかける。エリザベスの対応できる魔力の圏外を目指して。
その後ろを、甲高い笑い声が追跡した。
『アハッ——あははは!! すごいわぁクロトちゃん!! アタシの成長を前に、そこまで柔軟に対応できるなんて! やっぱりあなたは特別な男の子だと思ってたわ!! あははは!!』
心底痛快だとでも言わんばかり、エリザベスの哄笑が響く。
『だったら――競争しかないわねぇ~ッッッ!!!!!!!』
突如、笑い転げていたエリザベスの声は、獣の吠え声のような獰猛な響きを帯びる。
クロトの後方で再び蝶と蛾の群れが結集し、その中からエリザベスの身体が現れた。
彼女は自前の翼を羽ばたかせ、泥臭くクロトの速度に追いつこうと宙でもいがいた。
周囲にピンク色の空間をちかちかと点滅させながら、夢の世界を引き連れ、自分に追いすがらんとする彼女の意外な粘りように、クロトは金色の瞳をまばたきさせる。
『お前……そんなにフィジカルに自信あるやつだったか!?』
『夢魔は身体が資本よ!!!!』
なぜか論破された。
戸惑いつつ、クロトは素早い飛行を続けながら、徐々に霧が晴れるようにあらわになる現実の夜空を認める。このまま獣の体力で振り切れるか。それとも翼持つ者同士で、夜のデッドヒートを繰り広げることになるか……クロトはそう思考を繰り広げながら、目の前に現れた城の尖塔を見た。
ギリギリまで引き寄せて――衝突させる!
エリザベスの意外なガッツに当てられたのか、クロトまで危険な賭けに思考を染めていた。
そして、羽根が触れる寸前まで塔に近づき――完全に獣になった感覚で翼の角度を移す。
すぐ後方で飛ぶエリザベスからしたら、クロトが突然消えて、代わりに高い塔が現れたように見えるだろう。
案の定――女の悲鳴が聞こえた。
エリザベスではない、ほかの女の悲鳴が。
(なんだ……!??)
違和感に気を取られたクロトは目の端で後方を確かめる。
そこには城の塔にもたれるようにして倒れかけたエリザベスが、胸を押さえて苦しんでいた。
彼女の周りで息づく夢の世界のかけらから、硝子の砕けるような痛々しい女の悲鳴が絶えず響いてくる。
エリザベスが苦しみ、悶えるほどに夢の世界は小さくなり、消え去る一方で、女の悲鳴はあちこちの破片を飛び移るように聞こえてきた。
「ああああああぁぁ……っっっ!!」
その悲鳴がもたらす苦痛に美貌を歪ませ、エリザベスの苦しむ声もまた響く。
その苦しみようにクロトは思考し、逡巡し――気がつけば彼女のそばに飛んでいた。
『おい、なんだ――何があったって言うんだ――』
「あぁ……あの子が……! あの子が、ここで……苦しんでいる……!」
胸を掻きむしり、歯を食いしばりながらエリザベスが呻く。
その表情は、とてもクロトの気を引くための演技とは思えないほど神妙で鬼気迫ったものだった。
(くそ――!)とクロトは心中で歯噛みしながら、そのまま宙で変身を解いた。
人間の姿に戻ったクロトは直後、エリザベスの肩を掴んで体重をかけ、彼女の翼の浮遊を受けながら徐に落下した。
どさり、と彼女とともに城の芝生に身をつけたクロトは、依然と苦しんだままのエリザベスを見た。
「はあっ……はぁ……! こ、こに……いるわ……囚われてる……あの子が……!」
「あの子って誰だ!?」
獣のときの気分を引きずったまま、クロトが荒々しく問う。
エリザベスは弱々しく唇を動かした。
「……わた、しの……同胞が……!」
その直後、庭に落下してきた不審者たちを捕らえようと、夜の見張り兵たちが殺到してきた。
わけもわからないうちに、クロトはエリザベスの肩を抱きながら杖を構えることになった。
(くそ……何が起きてる!)
「待って……アタシが、道を作るから……!」
クロトの腕の中、苦しげに喘ぎながら、エリザベスは宙を指さした。
その瞬間、クロトの目の前はふたたび桃色の空間に支配された。迫ってきていた兵士たちの意識とも切り離され、クロトはエリザベスと共有する夢の世界に存在している。
桃色の空間の彼方で、ひときわ大きな星が瞬いていた。それは強い点滅と弱い点滅を繰り返しながら、懸命にもがくように輝いている。
エリザベスの指さすその方角に、クロトは彼女を伴って歩き出した。
さっきまで命を獲るか獲られるかの勢いで戦っていたのが嘘のようだ。
……だが、十年前にも、彼女とはこんなことがあったような気がする。
不思議と懐かしいような、憎らしいような気持ちに苛まれながら、クロトはその奇妙な空間を突き進んでいった。




