File 6 : 立石恵 3
高級住宅街、と呼ばれる街の一角に立石恵の実家である神尾家はあった。瀟洒な洋館という呼び方がしっくりとするその建物は多くの木々に囲まれて、暖かな春の日であるにも関わらず、人の目を拒む様に暗く冷たい空気が漂っていた。
恵の母が '娘は実家で療養させたい' と申し出て、恵はずっと神尾家で療養生活を送っている。夫の和美はそんな妻の療養費用を全て出し回復を願っている。
…というのが表向きの情報だった。
しかし和美の元には恵が元気な頃からの愛人がいて、恵は意識がない事が好都合とばかりに追い出されたというのが本当の事だと副総監が言った。
愛人との間に生まれた息子達は優秀らしく、1人は立石誠の私設秘書になっていて、ゆくゆくは祖父や父の地盤を継いで国会議員になると言われている。もう1人の息子は司法修習生として研修を受けている最中だという。
(どうせ、伊丹健四郎の弁護士事務所にでも入れるんだろうよ…)
神尾家の門前に立った久我山はそんな事を思い出し、眉根を寄せて門を睨みつけた。
「久我山警視正…。
お気持ちはわかりますが神尾家に非はありませんので、そのお顔はいけませんね。
笑う必要もありませんけど」
「ふっ…確かに…」
チャイムを鳴らして名乗ると閉ざされていた扉がゆっくりと開き、2人は鬱蒼とした木々の間を抜けて神尾家に入って行った。
屋敷の外からはよく見えなかったが、神尾の家は大きな窓から陽の光りが差し込む明るい屋敷にリノベーションされていた。
応接室に通された2人が暖かな風に木々がそよぐ様を見るとはなしに眺めていると恵の兄、神尾清一郎が現れた。
久我山達に、どうぞお座り下さいと椅子を指す仕草は洗練されていたが、その顔には微かな怒りと困惑が現れていた。
「警察の方が今更お越しになるとは…。
妹の事でとは伺っておりますが、意識のない恵の20年も前の出来事を聞いてどうなさりたいのでしょう?」
「再捜査…です」
「ほう…」
清一郎はそう言ったきり黙り込み、ティーカップに注がれたアールグレイを口にした。久我山と山之上も勧められ口にしたが、その香り高い湯気が顔に暖かく触れた時、久我山は意を決して話し出した。
「私は日下部慎二さんと恵さんは殺人事件の被害者なのではと考えています。もう一度、事件の見直しをして、犯人の手がかりを得たいのです」
まだ公にできない事が多いのですが…と久我山は自分達のいる特殊捜査研究所のこと、そこで行われている 'インネル' を使った新しい捜査方法のことを清一郎に話した。
「我々が開発している捜査方法で、日下部慎二さんと恵さんの事件は殺人と殺人未遂だったと証明できるのではないかと考えています。
事件から20年以上経ち科学技術も進歩しました。使われた薬物の同定も出来る可能性もあります。
捜査を再開して犯人を逮捕するために、一時的に恵さんを特殊捜査研究所でお預かりしたい。その許可をいただきに参りました」
長い長い沈黙の後で、清一郎は重い口を開いた。
「恵は私達の父に道具のように扱われ、立石家で蔑ろにされ、挙げ句の果てに無用な女とされて、ここに返されました。
恵はなぜこんな目に遭わなくてはならなかったのでしょう。知りたいと思っていてもなんの手がかりもなかったんです。
久我山さんは私の真実を知りたいという思いに応えてくれますか?
恵に全面的に非があっても受け止めますから」
「20年も意識がない恵さんの脳がどこまで記憶を保っているのか、その点だけは気がかりですが、今私達のできる事をさせていただきます。
私達も何が起きたのかを知りたいのです」
久我山と山之上が深々と頭を下げると、神尾は頷いた。
「そうですね。
このままでは何も始まらず、終わりも来ない。何かを恨んでいるだけの日々は辛い。
久我山さん。まずは恵に会って下さい。お二人がご自分の目で恵を見て、捜査が可能か判断してください。
私には判断できません」
2人が通されたのは一階の中庭に面した部屋だった。暖かな陽が差し込み観葉植物が溢れる部屋で、恵はまるで眠っているかのようにベッドに横たわっていた。
「立石家の人間は一度もここには来ていません。毎月の療養費振り込みの前に立石和美の代理人が様子をちょこっと見に来るだけですよ。
だから、その時だけは医療機器を周りに置いておくんです。恵はまだよくなってないと見せるために。
もう治療はしていません。日常の世話は母と私の妻がしていますが、ほとんど手間は掛からないのです」
そう言って神尾誠一郎は恵の頭をそっと撫でた。
「久我山さん。恵は耐えられますかね?」
「はい。脳がどの程度記憶を保っているかが鍵になりますが、外見だけでは私も判断できません。
ですが恵さんの顔を見て 'インネル' での捜査をするべきだと私は思いました」
その言葉を聞いて清一郎は恵を見ながら微笑んだ。悲しそうな顔にも見えた。
「恵。お前の頭の中はどうなってるのかな。皆で覗いて見ても構わないかい?」
しばらくじっと恵の顔を見つめていた清一郎は、ありがとうと小さな声で言うと、立ち上がった。
「研究所に恵を運ぶ算段はこちらでいたします。大丈夫です。立石家から変な横槍が入らないよう、気づかれないようにします」
久我山と山之上は清一郎と詳しい打ち合わせを済ませて神尾家を後にした。
数日後、神尾清一郎が運転するバンが神尾家を出て、ゆっくりと特殊捜査研究所の敷地に入って行った。
立石恵はICUの様に機器が並ぶ取調室のベッドに移され、念の為動かない様に拘束された。
取調室には機械音がピッ…ピッ…ピッ…と一定のリズムで響き、少し離れたところにある 'インネル' のモニタは複雑な波形を映し出していた。
やがて取調室の光が落とされてモニタが鈍く光り始め、ブーンという不気味な音と共に感情のないデジタル音声が響いてきた。
バイタル正常。異常なし。
これから取調べを開始します。
ガラス張りの監視室には久我山、山之内、市川の他、井上副総監、念の為に主任医務官の野沢が立ち会っていた。そして、特別許可を得た恵の兄、神尾清一郎もいて 'インネル' による捜査を見つめていた。
やがて鈍く光り波形を写していたモニタがはっきりとした映像を映し出した。
そこにはただ暗い闇が広がっていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
ここは何処?暗くて何も見えないわ
「ここは、特殊捜査研究所という警察の捜査機関です。あなたのお兄さんである神尾清一郎さんの許可をいただいて、あなたにここに来ていただきました。
まず、あなたの名前を教えてください」
あなた、誰?
「私は特殊捜査研究所の久我山警視正です。あなたが日下部慎二さんと共に被害者となった事件を覚えていますか?
これからその事件の再捜査を始めたいと思っています」
ふーん…。
言われた事は理解できたわ。
私の名前は立山恵。
国会議員立山誠の息子、立山和美の妻です。
「これから最新の捜査方法を使ってあなたの脳の海馬に働きかけ、あなたの記憶からあなたが被害者となった事件の真相を取り調べていきます。
あなたの記憶のみを証拠として残し、捜査に使います。すでに記録は開始しています」
言っている意味はよく分からないわ。
けど…私の記憶を記録して、立石家で起きた事を調べてくれるのね?あの人達がどんな人間なのか、見てくれるのね?
いいわ。私の見てきた事全てを捜査に使ってかまわない。
あの人達に復讐できるなら、私はなんでも平気よ!
「わかりました。
では、今回の事件に関するあなたの記憶を見させてください。
今回の事件の始まりだとあなたが認識している所から記憶の映像が始まります」
取調室に規則正しい機械音が響いた。




