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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第二節『これは死を纏う宴の奉り』
103/323

100.ただいまとおかえり


 ――聖域せいいきレイオルデン


「本日は急な招集に応じて頂き、ありがとうございました」

「いや、面白いことになって私は逆に感謝しているぞ」


 丁寧に頭を下げるセレノに、ヴィアベルは口の端を僅かに上げながら答えた。

 その表情から察するに、余程先が待ち遠しいのだろう。彼女はその美しい容姿と身に纏う衣服に似合わず、こういった趣向はかなり好みだった。

 狂人や戦闘狂というわけではなく、単に競い合うことが好きといったところだ。


「僕もですよ、ねぇ」

「……」


 アルバが話を振るが、イグニスはじっと黙したままだった。

 何かを考えるように瞑目し、微動だにしない。

 一件、分かりにくく見える彼だが、あまり言葉を口に出さずとも分かりやすい。

 頭の中で何を考えていようとも、彼の中での物事に対する境界は明確だ。

 その点……


「あらら。それにしても、どうして今日だったんでしょうねぇ」


 苦笑し、アルバは困ったように眉を下げ、わざとらしく軽く肩を竦めながらセレノへと視線を向けた。

 

「どうして、とは」

「大したことはないんですよ。闘技祭典ユースティアまでまだまだ期間はあるというのに、月神様から連絡を頂いたのは一昨日、そして招集の日が今日というのはいささかいているように思いまして。もう少し時間を頂けていたら、先のような失礼はなかったかと……いやいや、これは言い訳ですねぇ、申し訳ない」


 先の一件とは、従者がセレノの発言を嘲笑ったことだろう。

 だが、表情は申し訳なさそうに取り繕っていても、その奥にあるのは疑念と興味……自分の知らない事に対する知識欲。それを情報通と言えば聞こえはいいかもしれないが、彼のそれはあまりにも貪欲だ。

 意思疎通コミュニケーションは大切だと彼は言うが、それはその枠に収まるような性質ではない。


 つまるところ、今の発言に込められている意図はこうだ。

 セレノの、昨日・・に内界の者を招き入れた、という発言と、二日前・・・に今日の招集がかかった事実に対する不一致。

 本当に内界の者の願いに心を打たれ、闘技祭典ユースティアの話を持ち出したのであれば、二日前に招集の声をかけれるはずがない。

 内界の者が来ることも、その願いもを予め知っていたのか。

 たとえそうだとしても、それほど急ぐ必要はなかったはずだ。

 となれば、他に何か意図があるのか……。


 アルバの言葉にそういった含みがあるのを理解しつつ、セレノは思考するように、あるいは何かを待つように瞳を閉じた。 


 そんな中、ブフェーラが先の伝達石に入った通信の一件を思い出したかのように、皮肉めいた言葉を口にする。


「それ以前に、宣戦布告はしたものの無事に戦えればよいがな」

「どういう意味でしょうか?」

「いやなに、先ほどの通信のことだ。帰国して月国が落ちていなければいいと、心配してやってるだけなのだがな。星国と同じ末路を辿っていては、闘技祭典ユースティアに出る出ないの話ではないだろう」

「天神殿、いい加減にその汚い口を閉じたらどうだ?」


 呆れ混じりに言ったヴィアベルへ、ブフェーラが鼻を鳴らしながら視線を送る。


「ふん……次の祭典、我が国が海国を下すのを楽しみにしていろ」

「いいだろう」


 ブフェーラとヴィアベルとの視線が交差し、今すぐこの場で戦いを始めるのではないかと思わせるほど、張り裂けそうな空気が満ちた。


 しかし、その空気をぶち壊すように響いたのは……笑い声だった。

 皆がその声の方に視線をやると、微笑んでいたのはセレノだ。。


「ふふふっ。闘技祭典ユースティア、実に楽しみですね」


 そう柔らかく微笑むセレノの姿に、他の神々は戦慄した。

 それはほんの一瞬だった。だが、確かに感じた妙な違和感。

 初めて目にしたセレノの微笑みに、得も言われぬ感覚を覚えたのだ。


「ふっ、どこからその自信が来るのか、我にはわからぬな」


 その言葉に、微笑んでいたセレノの表情が一転。

 他に神々を射抜いた瞳は、まるで体の弱さを感じさせないものだった。

 むしろ、まるで獲物を狙う狩人のような、戦場に立つ戦姫のような、そんな鋭さを帯びている。


「自信……ですか」


 セレノがそう呟いた瞬間、クローフィが静かな動作で取り出した魔石から、ある光景が映し出された。

 

「「――――ッ!」」 


 その光景を前に、この場にいる全員が過敏に反応を示した。

 冷静でいられたのは、その原因を知る月国の三人だけだ。


 クローフィの手にした魔石、遠見石とは、内界でも多くの者が持つ遠くを見ることができる便利な魔石だ。それを覗き込めばより鮮明に遠くの景色が見える。

 だが、それは内界における伝達石同様、本来の使い方ではない。


 遠見石の欠片で見える光景は、その原石のある場所に映し出すことができる。

 無論、クローフィの手にしているのは遠見石の原石であり、そこから削り取られ加工された欠片がある場所は言うまでもなく――


「なんだ、これは……」

「なるほど……凄まじい魔力ですねぇ」


 ブフェーラの呟きにアルバは答えると、その細い目をセレノへと向けた。

 遠見石は所詮見るだけのものであり、音も聞こえなければ、魔力を感じることもできはしない。だが、それだけでわかる情報もある。

 ただの魔憑まつき程度ができるはずのない芸当、あり得るはずのない現象。

 

 たとえばそう……氷漬けになったデューク級が砕け散る(・・・・)様、などだ。


「これは……月国か? 月神殿、これはいったいどういうことだ?」


 まるで信じられない、といった意味合い(ニュアンス)を含んだヴィアベルの問いかけに、それ同様の皆の視線がセレノに集まる中、彼女は静かに口を開いた。


「どこからくる自信かと、そう問いましたね? これがその答えです」

「馬鹿な……ッ」


 ブフェーラは円卓に拳を落としながら、忌々しげに眉を寄せた。


「月国にこれほどの力を持つ者は、深域アヴィスを守る者以外いないはずだ」


 吐き捨てられた言葉を耳に、セレノはゆっくりとその腰を上げ、


「我が国の力を侮らないで頂きましょう。――動く時が来た、ただそれだけのことです。我々はただ、あの鈴の音と共に……。本日はこれにて失礼致します」


 丁寧に頭を下げると、セレノは静かにその場を後にした。

 彼女に続いて、遠見石を仕舞ったクローフィとリコスもその場を去ると、残ったのは束の間の静寂。

 皆がセレノの言葉を理解できずにいる中、この場でたった一人。

 その身を震わせ、高揚する気持ちを抑えきれない者がいた。


「……何か知っているのか?」


 ブフェーラがそう問いかけたのは、イグニスの従者であるソレイユだ。

 彼女は別に戦闘狂というわけではない。高鳴る理由は別にある。


「知っているというのは、今の男のことでしょうか?」

「それ以外に何がある」


 ソレイユは瞑目し、自らを落ち着かせるながらそっと呟いた。


「……似ていると思っただけです」

「似ている、か」


 ブフェーラの瞳が僅かに細まり鋭利な光を宿す。それは他の者も同様だった。

 似ている……その意味を知るが故の反応だといえるだろう。


「私は先代様よりお仕えしておりますが、当時彼の名を知らぬ者はおりませんでした。その時の力にはまだまだ程遠いと言えますが、あの魔力……そして氷の力。先の男の姿がの者を彷彿させるのは、無理からぬことかと」


 その言葉に対し、皆が浮かべた表情は多種多様であった。

 だがその中に含まれた思いが「やはり」であるということはどれも変わらない。


「そうか……なるほど。これはそうだな……確かに楽しみだよ、月神殿」


 静かに呟いたヴィアベルの顔は笑っていた。

 しかし、その笑みは決して穏やかなものではない。まるで仇を討てることを喜ぶようかのように、殺意の籠った笑みだ。


 胸に秘める想いはそれぞれだが、一同共通していることが一つあるとするならば、それは次の闘技祭典ユースティアへかける想いだろう。

 様々な感情が入り乱れ、様々な想いを胸に秘めるこの一室で、ソレイユは口の端を少しだけ上げると、心の中でそっと一言呟いた。


(……おかえりなさい)


 この瞬間も、世界を回す運命の歯車は正常に動き続ける。

 不変であり不動であり、小さな塵などものともしない。故に気付かない。

 気付かないからこそ、回り続ける……不変に、不動に、正常に。







 光る首輪を付けた一羽の梟が見守る中――戦いはすでに決していた。


 凍てつく大地を浅く漂う白煙。

 ゆらめく死の煙の中、まるで墓標の如く地面に突き立っているのは、一基の大きな氷棺だった。表面は艶めいていて、小さな亀裂一つ無い透明な結晶。

 その中に囚われ、透けて見えるデューク級はまるで剥製のようだった。

 身動き一つできず、生きたまま刹那に凍てついた降魔こうまは最後に何を思うのか。

 いや、何も考えることなどできはしない。

 表面だけでなく、その身体を成す全てのものが、断末魔を上げる暇もなくその活動を停止させているのだから。

 

 そんな墓標を前に、黒と紅の光を宿した男は静かに佇んでいた。

 色の付いた眼鏡によって気付きにくいが、というよりも誰の視界にも入らなかったが、このときのロウの瞳は血玉のように紅く光っていた。

 ただ前に一度見せた海での戦いの時と違っていたのは、その紅く光る瞳が左眼ではなく右眼だったことだろう。


「……フォルティス」


 ロウの声と共に、フォルティスは右腕を弓を射るようにしなやかに引き、デューク級の核の部分をその爪で、唸る槍の如く鋭く突き刺した。

 それを中心に勢いよく亀裂が走り、その氷棺は周囲に甲高い音を響きかせる。

 飛び散る氷片と共に、デューク級の身体は虚しく砕け散った。


 それを見届けると、フォルティスの体が元の狼の姿へと戻る。

 同時に、シンカの叫ぶ声が後ろから聞こえてきた。


「ロウ!」


 振り返ると、シンカたちが駆け寄ってきている。

 正確には駆け寄ってきているのはシンカ、カグラ、リンの三人だ。


「ロ、ロウ……よね?」


 ロウの前で減速しながら尋ねたシンカの瞳は、不安を宿し微かに揺れていた。


「いかにも、俺はロウだな」


 言って微笑むその姿に、安堵したシンカの表情が柔らかいものへと変わる。

 すでにロウの右眼は元の黒い瞳に戻っていた。


「で、でも、さっきのロウさんは……そ、その、いつもと違う感じがしました」

「そうよ。本当に、いったいどうなってるの?」


 カグラに同意しながら、リンが後ろを振り返る。

 そこにはブリジットとロザリーが、その場を動けずに佇んでいた。

 いや、先程の位置から近付いてる所を見るに、途中まではロウの元へ駆け寄ろうとしていたのだろう。


 しかし、その足はそれ以上、先へと踏み出すことができないでいた。

 行動や気持ち、その両方の意味で、どうすればいいのかわからなかったのだ。

 身を縮めながら震える姿は、まるで何かに怯える子供のようにも見えた。

 それはフォルティスも同様で、その場で座りながらじっと地面を見つめている。


「……俺のせいだな」

「ロウ、記憶が戻ったの?」

「全部じゃないが、この屋敷での記憶は思い出したよ」


 シンカの問いに苦笑して答えたロウの言葉に、ブリジットたちの肩が震えた。

 本来、ロウの記憶が戻ったのは、シンカたちとっては喜ばしいことのはずだった。それが願いでもあったし、何も心を痛めることはない……そのはずだった。


 しかし、こんなブリジットたちの姿を見ていては、とても素直に喜べる気分にはなれなかった。


「記憶は戻ったが、わからないことがある。俺はお前たちを置いてこの屋敷を去った。どうして……俺の記憶が戻ることを拒んだんだ? ロザリーの持ったその魔石があれば、俺にすべてを思い出させて、思う存分不満をぶつけることだってできたはずだ」


 そんな疑問に、ブリジットは震えた声で答える。


「思い出したってのは……ア、アタシたちを置いていなくなることになった……その理由も?」

「あぁ……本当にすまないと思って――」

「どうして謝るんだい!」


 謝罪の言葉を、ブリジットが強い口調で遮った。

 心の悲傷を、凄然を、赫怒を、すべての感情を剥き出しにしたような声が響く。


「くっ……ッ、アタシはこの都が大嫌いだ! この都に住む人間が大嫌いだ!」

「で、でも……貴女たちは必死に戦ってたじゃない。それは、みんなを降魔から守るためなんでしょ?」


 この国を、この都を、ここに住む人々を守るため。

 そのために傷つきながらも必死に戦い続けてきたのだと、そうシンカやカグラは思っていた。

 しかし、ブリジットはシンカを強く睨みつけると、


「そうだよ。大切なこの屋敷を守るためだ。この場所だけは、誰にも穢させやしない。その結果として、この都やここに住む人間を守ることになってしまっているのが、アタシは……悔しいんだよ」


 その声に含まれるのは強い憎悪だった。

 ブリジットの言葉はまるで、ここに住む人間など守る価値がないと言っているようなものだ。


「ブリジット……昔の貴女はそんな風じゃなかったわ。何が貴女をそこまで変えたの?」


 心から心配する瞳を向けるリンには、どうしてもわからなかった。

 リンの知る、本当に心優しいブリジットからかけ離れてしまった、その理由が。

 それと同時に、長年共に過ごして来たにも関わらずその理由がわからないことに対して、リンの中から溢れ出るのは自責の念だ。


 リンは周りがまるで見えていなかったのだと、自分を責めた。

 屋敷に住んでいた者は皆、自分と同じ気持ちだと思っていたのだ。

 ブラッドを探し連れて帰れば、屋敷から消えた笑顔が再び戻ってくると。

 だからリンは気付かなかった。気付けなかった。

 ブリジットたちが、ここまで追い詰められていたということに。


「何が変えたのか……かい。どうせ、アタシたちの想いは終わった。お前さんたちのしようとしたことの愚かさを、悔いるといいよ……」


 そう言って、ブリジットは静かに語りだした。


「アタシたちは三人とも幼い頃に、パパに拾って貰ったのさ。最初はなかなか慣れなくてね。二人は違ったけど、アタシは本当にかわいげがなかったと自分でも思うよ。それでもパパは、ずっとアタシたちに優しくしてくれた。しだいにアタシも、パパのことを信じるようになっていった。もちろん、それにも理由はあるがね」


 そのときの情景を思い出したのだろう。

 昔の自分には困ったものだ、とでもいうように、その表情に影を落とした。


「パパはこの屋敷で、ずっとアタシたちやこの都のすべてを守ってきたんだ。贅沢を言ったことも、ここの連中に恨まれるようなことも、一度だってしたことなんてない。でも、七年前――この下層区が今のようにに変わってしまったあの日、アタシたちの見える世界の色が変わった……」

「七年前……ブラッドが消えた日。……降魔の大侵攻があった日ね?」


 この下層区域の中でもこの北区画は、他の下層、中層、上層区域に比べ、確かに寂れている。整備されているわけでもなく、崩れたままの建物や、古い建物も多いし、貧しい者たちの集まるような区域だ。

 しかし、七年前まではここまで酷いものではなかった。

 今のように変わったのは七年前、リンの言う降魔の大侵攻があった日からだ。


「ある日、パパは大事な任務があると言って屋敷を出た。その翌日に、ここで魔門ゲートが開いたんだ。その魔門は異常なほど大きかった。次々に押し寄せる降魔から、みんな必死に逃げ回ったよ」

「そのとき、月の使徒は何をしていたの?」


 ――月の使徒……月国フェガリアルが誇る、魔憑で構成された対降魔部隊。

 リンから聞いた話によると、リン含め、スキアたちたちの所属もそこだ。

 外界とはいえ、当然すべての人間が魔憑というはずもなく、軍内でも魔憑でない一般兵は多く在籍している。

 しかし、月の使徒と呼ばれる部隊はそのすべてが魔憑で構成され、この国の戦力の中枢となる存在だ。 

 つまり、下層区域に降魔が現れた以上、真っ先に月の使徒がこれの殲滅にあたる。それ故にシンカの疑問はもっともだろう。

 それに対してリンは……


「私たちは任務で内界に降りていたわ。ブラッドと一緒にね」


 忌々しい記憶。ブラッドが消えた出来事を思い出したのだろう。

 下唇を強く噛み締め、すっと目を細めた。


「そうだね、運悪く上位の月の使徒はみんな出払ってたよ。パパが借り出されたくらいだからね。だから知らないのさ……あのときの醜い人の顔を……お前たちは」


 真っすぐにリンを見据えたブリジットの瞳。

 今、自分はどんな風に彼女に映っているのか、リンにはわからなかった。


 確かにリンはその日、下層区域で何があったのかまでの詳細は知らない。

 知っているのは、月国、内界の至るところに魔門が開いたこと。同時に北の深域アヴィスが動いたこと。月の使徒が総出で駆り出されたこと。そのせいで、内界での任務中にブラッドの消息がわからなくなったにも関わらず、救援どころか自分たちも他の魔門の対処へとあてがわれたこと……それだけだ。


 とはいえ、それだけの規模で魔門が開いたにも関わらず、内界の被害は最小限に抑えられ、月国も下層区域の被害はあったものの、死者は一人もでなかった。

 唯一の犠牲と言えば、ブラッドの生死が不明となったことだけだ。


 しかしその日以来、ブリジットたちが変わったのは事実だ。

 心根の優しかったブリジットの変化に伴い、屋敷に住んでいた他の四人も屋敷を出て軍の宿舎へ移り住み、リンもブラッドを探すために宿舎へ移り住んで内界への任務を過酷なまでにこなし続けた。


 屋敷に残ったブリジット、フォルティス、ロザリーの三人は何も語らず、ただただ今のように屋敷を守り続けていた。

 その理由が今やっと、わかろうとしている。


 自然とリンの手に力が入り、ブリジットを見つめ返す瞳は話の先を急くように揺れていた。そして……


「あのとき、ここの魔門は自然に開いたんじゃない。――ある男の策略だった」


 自分の知らなかったその真実に、リンは強い衝撃を受けた。

 月の使徒であるリンですら、上からは何も聞かされたいない情報。それをなぜ軍に在籍していない、月の使徒でもないブリジットが知っているのか。

 それは、彼女がすべてを見ていたからに他ならない。


「その男の顔は今でも忘れないよ。降魔たちが蹂躙する中、パパが突然帰って来た。でもその体は血まみれで、とてもひどい傷だった。それでもパパは必死に戦ったんだ。この都を守ろうと、この都の人々を守ろうと、必死に戦ってた……」


 声が徐々に震えてくる。

 怒りを堪えてか、悲しみを堪えてか、悔しさを堪えてか。

 そのどれとも判別もできない彼女の姿を見て、ロウはその顛末を口にした。


「そして俺は負けたんだ。その男に、この都の人々を殺さないように懇願した。月の使徒でありながら、情けなく頭を垂れたんだ」

「違う!」


 少し目を伏せ、言ったその言葉に強く反論したのはフォルティスだった。


「父様は昔俺に言っていた! 逃げた俺に、お前は最善の選択をしたと言ってくれた! みんなを助けるためにそうした父様は、情けなくなんかない!」


 そんなフォルティスの自分を庇うような言葉に、ロウの思考は迷走した。

 最初、ロウは三人を置いて屋敷を去ったのを理由に、自分を恨んでいるのだと思っていた。

 次にロウは、自分が情けない姿を晒した自分に、怒ってたのかと思っていた。

 それも違うと言うのなら、どうしてこの三人はこうまで悲しい顔をするのか。

 このときのロウには、その理由が本気・・でわからなかったのだ。


「肯定。パピィはいつでもカッコイイ。でも、そんなパピィを……」


 小さな吸血鬼ヴェリラスの少女の顔が、まるで目の前に敵がいるかのように酷く歪む。

 リンは、そんなロザリーの表情に驚いていた。

 まだ会ったばかりのシンカたちにはわからないだろうが、ロザリーは基本、表情をころころ変えるような子ではない。

 ましてや、ここまで怒りを含んだ表情など、滅多に見ることはなかったのだ。

 しかしその理由も、すぐに知ることとなる。


「懇願するパパに、男は笑いながら言ったんだ。だったら抵抗はするな。一度抵抗すれば一人、二度抵抗すれば二人だ、ってね。でも、一方的に続く降魔の攻撃にパパは耐えた。そしたら、男は中界へ繋がる門を開いたんだ。そして最後に、ここの連中にさ……こう言ったんだよ」


 面々をゆっくりと見渡し、自分を落ち着かせるようにブリジットは深く息を吸った。

 胸が押しつぶされそうな息苦しさを感じながらも、彼女は肺の中の酸素を入れ替える。

 そしてブリジットの底冷えするような低い声で言った言葉は、それを知る者以外に強い衝撃を与えるものだった。


”――その男を、この門から投げ捨てろ。そうすればここは退こう”


「そ、そんな……まさか、本当に……?」


 シンカの瞳は揺れていた。力のまったくない声は、弱々しく掠れている。

 まるで体中の血が抜けたかのように、肌は蒼白に染まっていた。

 カグラは辛そうに息をしながら何も言葉にできず、シンカの服の裾をぎゅっと掴んだ。


「結果は知ってるだろう? パパは記憶を失って、内界で七年過ごした」


 わざわざそうした男に、いったいなんの意図があったのかはわからない。

 どうやってロウが中界から生き延び、どうして内界にいたのかもわからない。

 それでもそれがきっかけで、記憶を失い内界で七年過ごしたのは事実だ。


「そ……そんな」

「今までずっとパパに守ってもらいながら! 必死に戦うパパの姿を見ていながら! ここの連中は最後にパパを捨てたんだよ! 魔門の先が降魔の巣窟だと知りながら! 戦ってボロボロのパパがそんな所に落とされたらどうなるか、簡単に想像できたはずなのに! あいつらはそれを選んだんだ! そんな連中を……好きになんてなれるわけがないだろう!」


 ブリジットの悲痛な慟哭に、誰もが何も言えなかった。

 誰もが、その真実を信じたくなかった。

 それが本当に真実なら、なんと人は醜いのだろうか。

 しかし彼女の剥き出しになった感情に、言葉に、表情に、嘘はないと嫌でも理解させられてしまう。


 そう、その当事者であるロウ以外は……


「お前たちがこの都の人を好きになれないのはわかった。だが、どうして俺の記憶を戻すことを頑なに拒んだんだ? そんなにも必死に……」

「私は……わかるわ。いいえ、やっと……わかった」

「わ、私も……ブリジットさんたちの立場なら、同じことをしたと……そう思います」

 

 そう、弱々しく言ったシンカとカグラはやっと理解した。

 ずっと守り続けていた町の者に、裏切られた過去を持っていると知っていたなら、二人は果たして同じ選択をとれただろうか。いや、とれなかっただろう。


”過去がいいものとは限らないだろうに。振り返ることに意味はない。今の幸福だけじゃ駄目なのかい?”


 あぁ、そうだ。きっと、ブリジットと同じように、今の幸せを探して欲しいと願っていたに違いない。


 そう悲痛な面持ちで視線を下げた二人に、ブリジットは力ない声音で言葉を零す。


「アタシはお前たちに尋ねたね。どんな過去でも、支える覚悟があるのかって。これがパパの過去の……ほんの……ほんの一部だよ」


 その言葉に、二人の少女は拳を強く握り締めた。

 思ってもいなかったのだろう。想像もできなかったのだろう。

 辛い過去……その言葉に、皆はいくつかの可能性を考えていた。

 それは大切な人の死。それは誰かに恨まれること。

 しかし、守った人たちに裏切られた過去など、彼女たちは微塵も想定していなかった。


 このときのシンカは、ロウの記憶を戻そうと張り切っていた自分を恨んだ。

 それはシンカだけではなく、カグラやリンも同じだろう。

 その表情を見るだけで、それが伝わるほど酷い表情をを浮かべていた。


「アタシはね、パパが死んだと思ってた。でも、諦めきれずに遠見の魔石で必死に探し続けた。そして見つけたのさ、穏やかに暮らすパパを。だから……思ったんだ。今が幸せならそれでいい。アタシたちのことを忘れたままなのは……確かに辛いけど、アタシたちを思い出すってことは、ここの連中に裏切られたことまで思い出してしまう。それでも思い出して欲しいなんてのは、アタシたちの我儘エゴだ。だってのに……なんの因果か、パパはここに戻って来た」


 俯く顔を上げると、ブリジットは濡れた瞳をロウに向けた。

 そして……


「どうだい? これが思い出して欲しくなかった理由だよ。思い出さないほうが……よかっただろ?」


 ――とても儚く、微笑んだ。

 

 そしてそれは、再びロウがこの神都に戻って来てから目にした、ブリジットの初めての微笑みだった。


「そういうことだったのか。俺を……恨んでいたわけじゃなかったのか……」


 そう呟いたロウの脳内に、ブリジットの悲痛の叫びが蘇った。


”過去が幸せとは限らない! たとえ過去にどれだけいいことがあったとしても、それすら……それすら本当にちっぽけになるほどの嫌なことだってあるんだよ! それを思い出して欲しいなんてのは――待つ側の我儘エゴだッ!!”


”どれだけ大切でも、どれだけ会いたくても、我慢するべきことだってある! 協力することが、相手を大切だと思う証明にはならない! 大切な人を待ち続けることが、愛することの証にはならない! 傍にいることが、相手のことを大切に思うことにも、愛することにもならない!”


 そう叫んだブリジットの中に秘められた想いは、想像を絶するものだろう。

 大切だから力を貸すことを拒んだ。

 大切だから突き放すしかできなかった。

 大切だから……そう、すべてはそこに確かな愛があったから。


「どうしてパパを恨むんだい? 恨むならパパの方だろう? アタシたちは、何もできなかったんだから」


 自分を嘲笑うかのように、ブリジットは苦笑した。

 きっと、自分を恨み続けて来たんだろう。

 何もできなかった自分が、許せなかったのだろう。

 これまでずっと、後悔だけの日々を送って来たのだろう。

 弱々しいブリジットの姿は、あまりにも痛々しいものだった。


「ブリジット、ロザリー、フォルティス」


 ロウはそれぞれに視線を向けると、丁寧に言葉を紡いく。


「俺はここの人たちを恨みも憎みもしない。人は誰だって、一生懸命に生きている。自分の命を守るのは当然のことだ。そう思うから、お前たちの中の間違いを、俺から一つ訂正させて欲しい」


 その声色は、まるで子供をあやすように優しいものだった。


「父様の言い分に俺は納得できない。父様が何を言っても、ここの連中を許せない気持ちに変わりはない」

「同意。でも……パピィがロザリーたちに間違いがあるって言うなら、それには従う」

「そうだね。連中を許せってこと以外なら……なんでもいいさ……」

「許してやって欲しい気持ちはあるが、許せとは言わないよ。それはお前たちの価値観いしで決めるといい」


 その言葉に、三人は静かに頷いた。


「ブリジット、お前はこう言ったよな。過去にいいことがあっても、それ以上の悪いこともある。なのにそれを思い出して欲しいのは、待つ側の我儘エゴだって。それは確かに正しいのかもしれない。だが……俺にとってそれは間違いだ」


 中界に落ちる寸前、視界の端に映った三人の悲痛な表情が、今なら鮮明に思い出せる。

 目を見開き、顔を涙で濡らしながら必死に手を伸ばすブリジット。

 顔を歪め、必死の表情で泣き叫ぶロザリー。

 その二人を、苦痛と悔しさを宿しながら留めていたフォルティス。


 そんな三人の姿を捉えた瞬間、無意識に呟いた言葉は、そのとき一番伝えたかった素直な感情だった。

 その言葉を脳内でもう一度思い返し……


”ブリジット、ロザリー、フォルティス。――愛してる”


 そして、続けた。


「なぜなら……今の俺は心の底から思い出せたことを喜んでる。成長したお前たちにまた会えて、俺は本当に嬉しいんだ。お前たちのそれは我儘エゴじゃない。ぶつけてもいいただの我儘わがままだ。……確かに嫌な記憶もあったことは否定しないが、それ以上にお前たちとの日々は幸せな記憶だよ」


 その言葉に、三人は目を丸く見開いた。

 そしてそれも束の間、みるみる内に表情が崩れていく。


 なぜなら、この三人も知っているからだ。

 今の言葉がに嘘が含まれていないことを。

 ロウは今までたったの一度も、嘘を吐いたことがないのだから。


「だから、ほら――」


 言って、ロウは両手を広げた。


「――おいで」


 そう微笑んだ瞬間。

 ブリジットもロザリーもフォルティスも、自分の気持ちを抑えることはできなかった。

 我慢していた。ずっと耐えていた。本当はこうしたかった。

 そういわんばかりに、ロウへと勢いよく飛びついた。


「父様、俺……俺は……ッ」

「あぁ、よく今までみんなを守ってくれたな。……ありがとう」


 ロウとの約束を、懸命に守り続けたフォルティス。


「パピィのこと、忘れたことなかった。ずっと、ずっと……寂しかった」

「寂しい思いをさせて、すまなかった……」


 ロウとの思い出を、ずっと大切にして来たロザリー。


「本当はすぐに打ち明けたかった。本当はずっと抱き締めて欲しかった」

「みんなを支えてくれてたんだよな。さすがお姉ちゃんだ」


 ロウのことを一番に考え、自分を抑え込み続けたブリジット。

 そんな三人の想いは、今ここで報われた。


「ブリジット、ロザリー、フォルティス。――ただいま」


 優しく微笑むロウに、三人はぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げると、


「――おかえりなさい」


 そう、曇りのない笑顔で答えた。

 



おかげさまで遂に百話。

ここまでお付き合いくださった読者の皆様、本当にありがとうございます。

これからも拙作をよろしくお願いします。

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