101.ロウとブラッド
ロウが住んでいたという屋敷の広間。
そこに、落ち着きを取り戻した面々は集まっていた。
暖炉の前にある大きな長机を囲うように置かれているのは、長机とほぼ同じ幅の三人掛けか二つに、二人掛けが二つの長椅子だ。
内、三人掛けの長椅子の真ん中にロウは座っていた。
その右隣で身を寄せてるのはブリジット。無論、老婆の姿などではなく、本来のうら若き少女の姿のままだ。嬉しそうに、まるで猫のように眼を細めている姿からは、最初に会った時の剣幕など想像もつかないだろう。
ロウの左隣にはフォルティス。毛を撫でられながら伏せた状態で両眼を閉じ、耳を時折ぴくぴくと動かす姿は狼というよりも犬だ。これが本当に、さっき見た気高き狼の姿なのだろうか。
そしてロザリーはなぜか、ロウの膝の上に座っていた。
小さな体をすっぽりと収め、安心したようにほっこりとした表情を浮かべている。その収まりのよさは、そこが最初から彼女の特等席なのではないかと思わせる程だ。
扉側の二人掛けにはシンカとカグラ、そして暖炉側の二人掛けにリンが座り、三人はその光景をじっと眺めていた。
ここに来るまでロウから離れようともせず、じっとロウに纏わりついていたブリジットたちから話が聞ける状態ではなかったため、これまでずっと黙していた。
最初は無事に丸く収まったことを喜び、その光景を微笑ましく見守っていたのだが、そろそろ限界がきたようだ。とはいえ、十分に我慢したほうだろう。
かなりの時間が経過した後、そっとシンカが疑問をぶつける。
「ねぇ、いろいろと聞きたいことがあるんだけど……いいかしら?」
「なんだい?」
ロウに寄り添っているブリジットが、面倒臭そうにシンカへと視線を投げた。
いかにも邪魔者を見るような目付だ。
大事なものを取られまいと、猫のような瞳が威嚇するようにすっと細まっている。
「本当にいろいろあるんだけど……まずは一つ。……ロウって何歳なの?」
本当に、という分を強調しながらシンカは問いかけた。
しかし返ってきた言葉は……
「え? そう、だな……わからないな」
「へ?」
「わ、わからないんですか?」
シンカのもっともな疑問に対しての予想外の答えに、彼女は間抜けな声を漏らした。それに続いてカグラも首を捻りながら問いかける。
ブリジット曰く、幼い頃からロウに拾われて育てられた、とのことだ。つまり、その頃からロウには数人の子供を養える経済力があったということになる。
その上、ロウが記憶を失ってからすでに七年が経過しているのだ。
軍に入隊できるのが内界では十五。外界はどうかわからないが、それほど大きくは変わらないだろう。しかし軍に入ったからといって、すぐにそれだけの経済力を持てるとも考えにくい。クローフィとリコスの態度から、ロウの地位が高いのであればそれも可能なのかもしれないが。
となれば……などと、二人の少女が必死に頭を悩ませてはいたものの、
「記憶が戻ったといっても、ここで過ごした記憶の一部だけで、古い記憶はまだだからな。俺の歳っていくつなんだ?」
「わかるわけないよ。アタシたちがパパに拾われた時から、今のパパと見た目は同じだったからね」
それはあまりにも衝撃的な言葉だった。
「ま、待って! それっておかしくない!?」
あんぐりと小さな口を開けたまま硬直したカグラの横で、当然のようにシンカが慌てた声を上げるものの、同じ外界に住むリンの反応はまるで違っていた。
リンは何かを思い出したかのようにぽんっ、と手を鳴らし、その疑問を解消する。
「そういえば、シンカたちはまだ知らなかったわね。外界の人間は、内界の人間と寿命が違うのよ。だから、成長する間隔もまったく違うわけね。だいたい内界の人間が一つ歳をとるのに、外界の人間は三年かかると思ってくれていいわ」
平然とリンから告げられたとんでもない告白は、シンカとカグラにさらなる衝撃を与えた。
今の話が本当ならつまり、例えば三十年生きていれば内界では当然三十歳だが、外界では十歳相当ということになるのだから。
「つ、つまり、リンさんも……ですか?」
ぎこちないカグラの問い掛けに、リンはもちろんと頷いた。
「外界でも、外見の変化は内界の人と同じでそれぞれだけどね。特に外界の中でも魔憑や亜人種は、あるきっかけで見た目の年齢が固定化されちゃうのよ。多いのは力に目覚めた時とか、暴走した時とか、体内の魔力が活性化した時ね。私も確か十九の時にもう見た目は今と変わらなくなってしまったから」
「ず……ずるいわ……」
シンカの呟きは、誰の耳にも聞こえないほどに小さかった。
ずっと若々しくいられるのだから、女性にとってはずるいと思われても仕方ないだろう。
内界の貴族の中でも、美容に関するものや、永遠の若さなどといった眉唾な話は得てして流行っているものだ。
とはいえ外界の人間でも、魔憑でもなければ外見が固定化されることはなく、内界よりも長寿というだけで老いてはいくのだが。
故に外界の人間というのは、というよりも外界の魔憑は年齢に対して頓着がない。
ほとんどの者が誕生日を祝うということをしないし、基本的に数え年だ。
年を跨いだから歳を取った、程度のものしか持ち合わせていない。
生まれた年さえ覚えていれば、今の年からそれを引けば生命的な年齢はわかるし、内界年齢でいうならそれを三で割れば済む話だ。
「まぁ、俺に関していえば……そうだな。今が星歴七七四年だろ? ブリジットと家族になったのが、星歴七四三年だったはずだから、三十一年くらい前だ。それ以前の記憶はないままだからわからないが、それ以上の年齢だな」
「さ……詐欺だわ。じゃなくて! ご、ごめんなさい、私。たかが十六の小娘が生意気ばかり……」
あまりにも突然の真実に目を回すシンカの横で、カグラはただぽかんと口を半開きにさせたまま再び固まっていた。
なにせロウの外見はよくて二十歳。リアンとセリス、エヴァたちとも仲がよかったことから、少なくとも彼らと同じ年齢くらいを想像していたのだ。
それが、本当にとんだ詐欺である。ロウもすでに固定化されているのだろう。
しかし次のブリジットの言葉は、また別の衝撃を与えるものだった。
「気にする必要なんてないさ。アタシだって、内界でいえばまだ十六の小娘だよ。六歳くらいでパパに拾われたからね」
「それで十六なの!?」
「……失礼な反応だね。老けてるって言いたいのかい? 内界の人間だって年相応に見えない奴はいるだろ。アタシは確かに十六だよ、ったく……」
素直な感情を隠さず、うっかりとまともに突っ込んでしまったシンカのまるで信じられないものを見るかのような反応に、ブリジットが目を細めた。
「ご、ごめんなさい、そうじゃなくて! あ、あまりにも大人っぽいから……」
言って、シンカは自分の胸とブリジットの胸を見比べた。
シンカの胸は決して小さくはない。シンカ自身、戦闘で邪魔になると思っていたくらいなのだから、むしろ確実に大きいほうだろう。
しかし、ブリジットのそれはさらに大きかった。
胸だけに限ることなく、彼女の纏った雰囲気は大人の色気を存分に感じさせる。
だから、シンカが驚くのも無理はないのだが……
「だいたい、年齢なんて別にどうでもいいだろう。そもそも外見がおかしいってんなら、ロザリーが一番おかしいよ」
「否定。ロザリー、年相応」
いつの間にかロウに貰った棒付き飴を口から離すと、ロザリーは頬を膨らませた。
そして、相変わらず眠そうな視線をブリジットに向ける。
普段からジト目のロザリーは、本当にじっとりとした視線を向けているのか、ただ単に見つめているのか判断し辛いが、今回ばかりは間違いなく前者だろう。
「何言ってんだい。アンタはパパがいた時に、もう十歳で外見年齢が固定化しちまっただろ。本当なら十五歳になってるはずだから、明らかにえ~っと……なんてったっけ? ……あぁ、確かあれだよ……ん~……ロリじゃないのかい?」
もうすでにシンカには突っ込む気力も無かったようだ。
額に手を当て、深い溜息を吐きながら静かに俯いている。頭の中のいろいろなものが、なんだかすーっと抜け落ちていくような気さえしていた。
「否定。ロザリーは大人の魅力有。パピィもいちころ。ねっ?」
言って上を見上げるロザリーと、ロウの視線が交わった。
フォルティスの首元を撫でていた左手がピタリと止まり、ロウは返答に悩んだ。
催促するようにフォルティスが身を震わせると、ロウの手が再び動き出す。
フォルティスは気持ちよさそうに、耳をぴくりと動かした。……どう見ても犬である。
「ん~、どうだろうな。ロザリーにはロザリーの魅力があると思うぞ?」
「パパ。それ、答えになってないよ」
ブリジットの突っ込みに、ロウの額から脂汗が流れ落ちた。
だが、ロザリーは特に気にする様子もなく……
「事無。ロザリー、まだまだ成長期。その内、パピィもいちころ」
言って、ロザリーは再び棒付き飴を舐め始めた。
彼女の胸はお世辞にもふくよかとは言えないし背も低く、十歳で固定化したとはいえ、そもそもがそれよりも幼く見える。一言で簡単に言い表すならば幼女だ。
成長期といいつつも、外見がそれで固定化されてしまったのでは、それ以上の成長はないのではと思いつつ、ついでに言えばどこから来る自信なのかと思いつつも、誰もそれを口にはしなかった。
ほっと安堵の息を吐くロウを見つめるシンカの視線が、何故かロウにとって心なし痛かったが、そんな空気を変えたのはリンだ。
「ねぇ、ロウさん。私からも聞きたいんだけど、さっきブリジットと家族になったのは七四三年って言ったわよね? それに間違いない?」
「間違いない、と思う」
「そう……なの」
顎に人差し指を当てながら思考するその表情はすぐれず、絶対に解けない高難易度の問題を、意地になって考えているようにも見えた。
そんなリンの姿を見て、カグラは思い出したように言葉を口にする。
「そ、そういえば、ブラッドさんもここに住んでたんですよね? だから、ブラッドさんがロウさんのことを知ってたっていうのはわかりましたけど、ロウさんはブラッドさんのことも思い出したんですか?」
「……」
無言で肩を竦めるロウにシンカは眉を寄せ、浮かんだ疑問を投げ掛ける。
「おかしくない? 普通、一緒に住んでた人間の記憶だけが欠けると、全体の記憶自体が変になるわよね? たとえば、今ここで会話してる中で、私のことだけをロウが忘れたとしたら、今私が言ってる台詞だけがすっぽ抜けるってことでしょ? それって、会話全体が繋がらなくなるわよね?」
「確かに――そうなるだろうな」
感じたのは違和感。どこが、なにが、どういった風に、ということはわからない。
ただ、漠然とロウの答え方に違和感を感じたのだ。
「というか、これも聞きたかったんだけど。そもそもどうしてロウに記憶が戻ったの?」
「回答。それはこれのせい」
首にかけていた魔石のついた首飾りを取り出し、ロザリーは掲げてみせた。 細い鎖の先に付いた卵型の魔石に、花の蔓のようなものが這っているような意匠が施されている。
「魔石……ですか?」
「肯定。この魔石、魔力を流して使用すると思い出を蓄積する。思い出に関係する人の魔力がこれに触れると、頭の中で思い出が再生する。ロザリーの宝物」
言って、ロザリーは手にした魔石を磨きだした。
宝物というだけあって、その魔石は曇りなく輝いている。今磨いていることからしても、手入れが行き届いているというのが窺えた。
「ねぇ、私にも――」
「それは無理だね」
リンの言葉を遮り、ブリジットがきっぱりと否定する。
ブリジットに向けたリンの瞳は、それはどうしてなのかと問いかけていた。
ずっと考えていた問題の解答があるのなら、それに手を伸ばしたくなるのは当然といえば当然。いくら考えても、それがどうしても解けないのなら尚更だ。
しかし、ブリジットが差し出したのは解答ではなかった。
「理由は今言っても、ややこしくなるだけさ。そんなことより……リン。お前さんには一番聞きたいことがあるだろう? たくさん疑問があるはずだ。不思議なことがあるはずだ。それを、どうして聞かないんだい? 気付いてないってことはないだろうにね」
その言葉にリンは鋭く短い息を呑み込んだ。額に汗が浮かび、両手には自然と力が入り、強く鼓動する音がとても煩く聞こえてくる。
「そんなにも――聞くのが怖いのかい?」
さらに重ねられたブリジットの言葉に、リンは強く瞼を閉じると眉間に皺を寄せながら、深く何かを考えこむように俯いた。
ずっと悩んでいたこと。ずっと聞きたかったこと。
それでも聞けなかったのは、ブリジットの言う通り怖かったからだ。
しかし、このまま思い悩んでいても何も解決しないというのであれば……。
そして覚悟を決めると、そっと目を開きながら、
「わ、私の記憶が正しければ、貴女たちが父だと慕っていたのは――ブラッドのはずよ。ロウさんの存在は、かなり上の御方しか知らないようだったわ。なのにここに住んでいたのは、ロウさんの存在を隠すため? ブラッドもそれに関わっていたの? 私もここに住んでいたのに、どうして私が知らなくて貴女たちが知っているの? みんなで私に隠してたの? ロウさんとブラッドの二人が貴女たちにとって父親だったってこと? そもそもその魔石の力で記憶が戻ったなら、そこにいたはずのブラッドの記憶が……どうして戻らないの?」
次々に投げ掛けられる疑問。
それは、ずっと聞きたかったが聞けないでいたことだった。
最初、眼鏡つける前の外見が似ているロウを、ブリジットたちがブラッドと勘違いしているのだと……リンはそう思っていた。
しかし、話を聞けばブリジットたちはロウという名前を平然と受け入れ、戻ったロウの記憶の中にもブリジットたちの存在があった。
それはつまり、屋敷でロウとブリジットたちが、共に過ごしていたことに間違いはないということだ。
ならばなぜ、ブリジットたちよりも早くにブラッドと出会い、この屋敷に住み始めたにも関わらず、自分だけがロウの存在を知らないのか。
自分が気付かなかっただけで、ロウとブラッドは時折入れ替わっていたのだろうか。
いや、それなら魔石で記憶が戻った時、屋敷にいたブラッドのこともロウは思い出しているはずだ。
一度疑問を言葉にして口にすると、もう止まることができなかった。
冷静に努めていたリンの頭が、ブリジットの言葉で崩壊したかのように、矢継早に出てくる疑問の声には確かな焦燥の色が感じられる。
そんなリンにかけたブリジットの答えは、彼女の望むものではなかった。
「……リン、よく聞きな。アタシたちのパパは――ここにいるパパただ一人だ」
「え……? う、嘘……」
「嘘じゃない」
「だって、ブラッドにあんなに懐いてたじゃない! パパ、パパって! あれが演技だったとでも言うの!?」
当然リンには、ブリジットの言葉が信じられなかった。
嘘だと言って欲しかった。冗談だと……そう、笑い飛ばして欲しかった。
しかし、ブリジットの瞳は真剣で、それが嘘ではないということを真に告げている。
「……今、アタシに言えるのはそれだけだ。すべての真実を知りたければ、クローフィに聞くといいよ。まぁ、教えてはくれないだろうがね」
「――ッ!」
リンはいても立ってもいられないと言わんばかりに、勢いよくその場で立ち上がり、屋敷の扉へと走り出した。
行き先は決まっている。一刻も早く疑問の答えを得るために。
「リン!」
「リ、リンさん!」
シンカとカグラの呼ぶ声も届かず、リンは扉を開き、外へと駆け出していく。
「待ちな」
追いかけようと腰を上げたシンカたちを、ブリジットが一言で制止した。
二人が戸惑うような視線をブリジットへ返すと……
「で、でも」
「今行って、なんて声をかけるんだい? これは……難しい問題なのさ。時がくるのを待つしかない。それがわかってるから、パパも追いかけようとしないんだよ」
シンカたちがロウに視線をやると、ロウは静かにリンの去った扉を見つめていた。
そんな彼を見て、少女たちは上げた腰を再び下ろす。
リンのことは心配だ。彼女がどんな気持ちでブラッドを探し続けてきたのか、この場にいる誰もが知っている。
だからこそ、容易に掛ける言葉が見つからないのも確かだ。追いかけたところでブリジットの言う通り、なんの力になってあげることもできやしない。
「どういうことなの?」
「今説明しても、中途半端になるだけだ。パパの記憶がもっと戻れば、自然とわかってくるだろうさ」
ブリジットの答えに、シンカは納得いかない様子で僅かに顔をしかめるが、それ以上追及することはしなかった。
屋敷を出たリンの向かう先は、当然クローフィの元だった。
リンの頭の中は、すでに限界にきていた。
何一つ、得た情報が噛みあわない。
何度辻褄を合わせようと思考しても、おかしな齟齬が生じてしまう。
真実を得るために、クローフィを問い詰めようと駆ける先に、一人の少女が見えた。……門扉の外からじっと屋敷を眺めている。
その姿を見て、リンの足が自然と緩やかになり、そして止まった。
「……ア……アリサ?」
戸惑うような声がリンの口から出ると、少女はリンに視線を向けた。
「ん? 懐かしい顔だな」
赤で縁取られた白の軍装に身を包んだ、アリサと呼ばれた少女が口の端を上げて微笑んだ。
左髪を耳へとかけるように後ろへ流し、右側の前髪は少し目にかかっている。
ショートのような髪に、長く細い二本に束ねられた珊瑚色の後ろ髪が、茜色に染まる空の下、静かに風に乗ってなびいた。
「ど、どうして貴女がここに?」
「偵察だ。降魔が暴れてる内に偵察して帰還する予定だったが、最後に忌々しいこの屋敷を見ているとなんだか懐かしくなってな。つい、長居してしまった。最後にリン先輩に見つかるとは思ってなかったよ」
それはつまり、さっきの降魔はアリサが送り込んだと、そう告げているに等しいものだった。
「降魔って……貴女もしかして、ルインに?」
「そうだが? それがどうかしたか?」
平然とそう答えたアリサに、リンの信じられないとでもいうかのように、その目を丸く見開いた。
「どうして……? どうしてルインなんかに……」
「どうしてだと? そんなの、生きるために――復讐するために決まっているだろ」
「――ッ、やっぱり貴女は……隊長を恨んでるのね」
「当たり前だ。私の母を殺したあの男だけは……絶対に許さない」
底冷えするようなその低い声は、わかりやすいほど確かな怒りを含んでいた。
真面目で、勤勉で、努力家で、忍耐力が強くて、母親想いの甘え上手な後輩。その姿は最早見る影もなく、あるのは憎しみに囚われた痛ましい少女の姿。
「ち、違うわ、アリサ! あの人は……ブラッドはそんなことをしない! それに、今ここにブラッドはいないわ。七年前に消息が――」
「何を言っている?」
弁解しようとするリンの言葉を、アリサの声が静かに遮った。
眉を寄せ、訝し気な視線をリンへと向けている。
「……え?」
「ブラッドなど、別にどうでもいい。私の狙いは母を殺した、あの男だけだ」
「……ど、どういうこと?」
リンの掻き乱されていた思考が、再び激しく掻き乱れされる。
アリサは昔、リンと同じ部隊に所属していた月の使徒だった。
愛する母を当時の隊長に殺されたことで使徒を抜け、今まで消息が掴めないでいたのだ。とはいえ、その隊長がアリサの母を殺したという証拠はなく、当時者の証言によるものだけだった。
そして、アリサのいた部隊の当時の隊長はブラッド。……そのはずだった。
だからこのときのアリサの言葉を、リンはまったく理解できないでいたのだ。
「長い間見ないうちに弱くなったものだな。だが、私は強くなったぞ。この恨みを晴らすため、この憎しみを糧に、あのときよりずっと強くなった」
門扉越しに向かい合い、告げられた言葉。
美しいはずの夕焼けも今のリンの瞳には、また違って見えた。
夜の訪れを漂わせる空が血のような残照に染まっていく。
「まぁ、今日は偵察だ。精々万全の準備をして置くことだな。その上で……すべてを壊してやる」
そう言い残し、アリサは背を向けると、
「ま、待って!」
リンの制止の声も聞かず、彼女は走り去った。
その背を追うこともできず力なく両膝を折り、地面へとつける。
「どういう……ことなの?」
懐かしい邂逅を果たした中……リンはただ、茫然としていた。
その瞳に光はなく、ただただ何もない静かな時間が流れていく。
もうすでに自分が何を考えているのかすら、理解できていなかった。
真っ白な頭の中、複雑に絡んだ感情の渦だけが頭と胸を酷く痛めつける。
そして、しばらく経った後、ゆっくり起き上がると……
「クローフィ様に……クローフィ様にすべてを聞かないと」
弱々しい声で呟き、ふらついた足取りで宮殿を目指して歩き出した。
10月14日編集/誤字修正




