闇
「 或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。廣い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗りの剥げた、大きな圓柱
に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門
が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男
の外には誰もいない。」
「はい、そこまででいいです」
現代文教師の岩瀬が、僕の音読を止めた。
僕は、喉まで出かけた言葉をなんとか噛み殺し、口を噤んで席についた。僕のすぐ目の前では、現代文教師の岩瀬が、顔の前まで持ち上げた教科書の間から静かに僕を窺っていた。岩瀬の視線をよそに、僕は昨日のことばかりを考えていた。才田の言っていたことは事実なのか。そればかりが朝から頭の中を渦巻いていたせいか、僕はバッグの中にあのサバイバルナイフを潜ませている。いずれにせよ、今日が実行予定日だ。するもしないも僕次第だが、殺らなければ、僕が藤間に消される。止むを得ない。
「今、設楽君に読んでもらった、『羅生門』ですが、続きに行く前に作者を確認したいと思います。作者はだれですか?」
答える者はいなかった。しかし、知らなかった訳ではない。あえて、答えなかった。この授業に真面目に取り組む者など、この教室にはいなかった。僕を含め、誰もがこの岩瀬を「中間罷免」に陥れようとしていた。
「いませんか……。えーっと、じゃあ坂下さん答えてください」
岩瀬に指名されたのは、このクラスで一番の天然を誇る坂下清だった。さすがクラス一の天然だけあって、坂下が指名されるだけでクラスではいつも笑いが起こる。それに気づき清は怒るが、気づいていない岩瀬は、自分のことだと思い教科書をさらに顔へ近づける。このコントラストがまた一層クラスの笑いを誘い、再びそれが繰り返される。最終的には、清が渋々折れるのだが、それでも岩瀬は変わらないのが常だった。この時も、笑い声にいち早く反応した清は、教科書を持つより早く声の主を睨んだ。
「ちょっとさ、聞こえてんの! 笑い声。いつもいつもさ、やめてくれない! わかってんのさ、あんたでしょ、かいち!」
清に睨まれた片瀬市こと、通称かいちは、少しの怯えも見せずただ肘をついた左手の手のひらに顎を乗せ、鼻で笑っていた。さすがに毎度のことなので、慣れている。
「んな、怒んなよ。なにもてめぇ見て笑ってねぇって……ひひひひ」
「だーもう、それが笑ってんのさ! なんでさ、いつもさ、私を見てさ、笑うのさ! ひどいさ!」
ずっと聞いていると、清は沖縄の方言でも喋っているかのように聞こえるが、これは癖らしく、本人は無意識だという。お淑やかに振る舞っていれば、それなりにモテたであろうその清の童顔と華奢な体躯は、既に僕ら男どもの頭の中からは消え去っていた。
「ひひひひひ、おもしれぇ」
かいちは、成績優秀で運動神経も抜群で体育の体力テストでは常にAをとり、まさに出来杉君の才能を体現した学生だった。それでも、かいちは天性の毒舌のせいで、多大な損をしている。が、当人はその大損に気づいていない。清同様に、性分が異性関係を拗らせているとは、一切感じていないようだ。ただ、異性交際は校内法度に触れてしまうため、むしろその方が都合がいいのかもしれない。
清とかいちがいつもの茶番を繰り広げている間、岩瀬は教科書で顔を隠していた。そして、もう片方の手でやけに鼻を触っているのが、妙だった。だが、そう思ったのも刹那、次の瞬間には、別段気にならなくなっていた。
暫くして、茶番を終えた清が唐突に
「芥川賞の人でーす」
と、素っ気なく答え、再び教室は笑いに包まれた。教科書で顔を隠していた岩瀬も、教科書を胸の高さまで下げて、静かに
「そうですね」
と、だけ言いったが、すぐに口を閉ざした。
「やっぱバカかよ、清。フルネームだろそこは」と、すぐに突っ込んだのは、やはりかいちだった。「よっ! いいぞ、さすが天然の言う事は違うね!」
「ほんっとさ、すぐバカにすんのやめてよね! あたしだってわざと間違えてんじゃないのさ、かいちもバカにしてないで本当のこと教えてほしいさ!」
本当のことを言えば、清の間違いよりも、怒った時に表れる沖縄訛りの方が僕らの笑いを誘っているのだ。だが、無意識な為にこれを言えばさらにキレるに相違ない。となれば、また沖縄訛りを拝むことになる。この無限ループだけは、どうしても回避したかった。この後、清は尚もクラスの笑い声を誘い、一方の岩瀬は、笑い声にかき消されそうな小さな声で授業を進め、この日の現代文は終わりを迎えた。
終わりのチャイムが鳴り終えた頃、清が仏頂面を浮かべながら、僕のもとへやってきた。
「ねぇねぇ~、みんなしてあたしをバカにしてさ、そんなに可笑しかった? あたし」
今も可笑しいよ、と言いそうになるのを堪え、僕は愛想笑いをして
「そうでもないよ」
とだけ言った。今の清に対しては、機嫌をとることしかしてはいけない。いかに気づかれずに、眉間に刻まれた皺を伸ばす方法を実践するかが先決だった。
「設楽君はさ、みんなからバカにされることがないからいいよね。顔を見る限りでは、悩みも無さそうだし、羨ましいわ~」
じゃあ、このサバイバルナイフを渡そうか、と言いそうになるが、こればかりは絶対に言ってはいけない。既に覚悟は決まっていた、それでも、悩みが無いと言われれば反論もしたくなった。清にとっての悩みなんかより、もっと大きな悩みを抱えている、と。だが、肩代わりなんて出来ない。させたくない。一般常識もろくに知らないような純粋無垢な清を、血で汚す訳にはいかない。別に清の為にやるのではない、自分のためだ。僕はいつしか、程度の底知れぬ熱っぽさを感じていた。それを察したのか、清も僕の異変に気づいたようだった。
「さっきから目合わせてくれないと思ったら、設楽君、具合悪いんじゃない?」
「天然のくせによく気づいたな……、なんか熱っぽいし、頭痛い」
「天然は余計なんだって。あまりにも目合わせてくれないから、一瞬好きなのかと思っちゃった」
「バカを言え」
僕は、赤らめてきた顔を熱っぽさのせいにして、保健室に行く旨を清に伝えると、逃げるように清から離れた。ああいう台詞を一切の羞恥心なく言えるところが、清の純粋さを物語っていた。一歩間違えば、男は本気にしてしまう。天然なのか魔性なのか、僕は清がなんとなく気になっていた。
保健室のベッドは、抜群の安定性で僕を包み込んでいる。僕は、あっという間に頭痛と熱っぽさを忘れ、快眠に浸っていた。今頃みんなは、真面目に机に向かって授業を受けていると思うと、多少良心は痛んだが、だからといってこの心地よさを止める訳にはいかなかった。今、自分にだけ流れているこの幸せの時間が、無限に、永遠に続けばいいのに、とさえ思った。そして、僕の悩みなど、嘘のように消え失せてしまえば……。
「設楽くーん、そろそろ時間よ。さぁ起きて!」
授業の終わりを告げるチャイムと共に、養護教諭の安西が、僕を夢世界から現実へと引き戻した。安西は、僕から布団を剥がそうと手を伸ばしてきたため、僕は素直に布団を剥がした。体を起こすと、妙にぼーっとするのが感じられた。
「いきなり体を起こすと、却って悪いわよ。次の授業まであと十分はあるから、もう少しゆっくりしていきなさい」
「あ、でも大丈夫なんで、もう行きますね。ありがとうございました」
安西を振り切って、僕は教室へと帰った。だが、まだ足取りは重かった。そして、鈍痛がまだ頭に残っていた。保健室のベッドは、一時的な快楽を与えてくれるだけの魔法のベッドに過ぎなかったようだ。
教室に戻ると、丁度授業の始まる直前だったらしく、全員が着席したいた。こういう時、教室という空間は、とても入りづらいものとなる。もちろん、僕一人が教室に戻ったところで、歓声が起きる訳でも、女子の黄色い声があがる訳でもなく、僕は悲しく席に着いた。
「ちょっとは、頭正常になった?」
と、言って僕の後頭部をつついたのは、清だった。僕は、いきなりのことで動揺しつつ、振り返って、後ろの席の清を見た。
「元から清より正常だから、大丈夫だって」
「ほら、またあたしをバカにした! 設楽君が戻って来る前にね、かいちと賭けをしてたの」
清がそこまで言うと、少し離れた所からかいちがやってきた。嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「な、言ったろ? お前が戻ってきて、まず第一声で清をバカにするか、しないかって賭け。俺のアタリだな! 清、ジュース奢れよ、俺カルピスな」
「あ~、もうさ! どうしてさ、あたしをバカにするのさ!」
かいちとの賭けによって齎された清の怒りは、なぜか僕に向けられていた。既に、口調が沖縄訛りになってきている。そもそも、賭けの内容からして、清の負けは決まっているようなものだ。このクラスに、清をバカにしない者などいないのだ。清は、尚も僕に文句をつけてきたが、僕はただ聞き流していた。怒っていたとしても、清の顔を見ていられるのは、それも幸せの時間と呼んでいいかもしれない。
「ねぇ! 聞いてる? 先生来てるよ」
えっ、と言って僕は前を見た。日本史教師の高橋が来ていた。
「設楽君、ずっとあたしの目ばっか見てるんだもん。どうしたの? 好きなの?」
クラス中に笑い声がこだました。同時に男子の冷やかしの声も聞こえてきた。
「バカを言え」
僕は、真顔で冷たく言った。こうでもしなければ、この天然娘は信じてしまう。
「誰が好きんなるか、バーカ! 自惚れんな」
かいちも、真顔で毒を吐くと、自分の席に戻っていった。
「あはははは、賑やかだな。さっ、授業入るぞ」
高橋は、にやにやしながら教科書を広げた。
藤間 中流
昼休みになって暫くして、校長室にノックが三回響いた。私が呼び出した、例の生徒がやって来たようだ。
「失礼します」
「どうぞ」
ドアが開いて、一人の生徒が入室した。
「3年A組、北浜 初美です。学校長、お呼びでしょうか」
北浜君は、さすがに緊張している。無理もない。校長から直々に呼び出されたとあれば、ただ事ではないと感じているはずだ。それに、この緊張した面持ちは、心当たりのある顔だ。
「そこに腰掛けてくれ、北浜君」私は、目の前のソファーを指した。「緊張しなくても、いいよ」
北浜君は、そこから一言も発さず、私の指したソファーに腰掛けた。俯いた表情の中には、緊張と恐怖が見えている。うん、美しい。私が呼び出した件を考えれば当然だが、この子は、美しい。セミロングの黒髪に童顔に似つかわしい大きな目が、この子の美しさを引き立てている。うん、美しい。
「校長というのも大変でね、私がこの部屋にいられるのも限られている。その中で、私が君を呼び出したのは、ある件についてなんだ」
北浜君は、顔をあげ、涙目で私を見つめた。子供のような愛らしいその目が、私を吸い込もうとしていた。
「あたしに、なにをするんですか……」
「君は、複数の成人男性と肉体関係を持ち、援助交際をしているね。さらに、複数の成人男性にその話を持ちかけた君は、毎晩のように性行為を行い、およそ100万円を奪った。事実だね?」
北浜君は、ぎょっと一瞬驚いた表情を僅かに見せると、ついに堪忍したのか、はぁっとため息を漏らした。
「うち、貧乏で……、今だって学校通うのでギリギリなんです」
北浜君は、今にも泣き出しそうな震えた声で語った。透明感のある透き通った肌と、細く美しいその華奢な肉体、そして、童顔に似つかわしい大きな目をしたその作られた裏の顔。この女の美しいだけの裏の顔に釣られた愚かな人間どもが、この女と関係を持った男たちだ。毎晩男たちに体を弄ばれ、金のために身を売った愚かな女の表の顔を、私が暴いてやろう。
「さすがに100万円はいらないだろう。それに、君は野球部の平田君とも関係を持っているね。私の駒が、君と平田君が図書室で性行為を行っているとの情報をくれてね、それで君は今、法と校内法度に背いたことになる」
「そ、そんな……。あたし、どうすれば」
絶望感に打ちのめされた北浜君は、手のひらで顔を覆い隠し、泣き始めた。まだ、本性ではない。私の直感が、そう言っていた。ならば、そろそろ地獄を見てもらおう。
「君は、太平洋戦争の幕開けとなった日本軍による真珠湾攻撃を知っているかい?」
北浜君は、静かに顔をあげた。僅かに頬を伝う透明な涙は、この女の肌と見事に合致し、これまでにない煌めきを肌に齎していた。うん、やはり美しい。
「日本では、毎年八月になると、“ヒロシマ、ナガサキを忘れるな”という言葉をよく聞くが、それがアメリカになると、“Remember pearl harbor(真珠湾を忘れるな)”となるんだ。それほど、アメリカ人にとってこの真珠湾攻撃というのは、忘れてはいけない大事な事件なんだ。戦後60年が経過したが、アメリカ人は、未だに日本人へ“卑怯者”というイメージを持っている。全員が全員そうではないが、年を召されていればいるほど、そう思っていると言っていいだろう。私の祖父も、戦後20年が経って初めて海を渡った時、祖父は外国の往来で“Your coward!!(卑怯者!)”と言われ、唾を吐かれたそうだ。ではなぜ、“卑怯者”なのか。それは、日本が真珠湾攻撃を行うに当たって、宣戦布告をせずに騙し討ちをしたから、と一般的に言われている。だか、それは通説に過ぎない。真実は、 開戦当日、宣戦布告の通知が米大使館員である外務省職員の怠慢で遅れてしまった、それだけなのだ。学校で例えれば、生徒たった一人が、遅刻をして登校してきた、それだけのことだ。たが、それが私たち日本人の運命を変えたんだ。たった一人の日本人のせいで、戦後60年が経ってもなお、私たち日本人は世代を超えて“卑怯者”の汚名を着せられている。そして、この後何百年とその汚名は永遠に晴れることがないだろう。……私が君に何を言いたいかわかったかな。言ってしまえば、今の君は、その外務省職員だ。遅刻をしてしまった、たった一人の生徒だ。君一人の過ちで、今後何百年とこの学校は、汚名を背負わなければならない。君のせいで、この私の教徳高校は、“淫らで愚かな生徒”を輩出した高校として、後世まで語られるんだ。それが何を意味しているのか、今の君には分からないだろう。それでもいい、何年、何十年と続く長い人生の中で、身を以て感じるといい。己が犯した罪と、罰の重さを。これ以上、君に学校にいられては、困る。……学校から消えてくれ。手続きは早急に済ませる、退学理由も生徒たちにうまく話しておく」
北浜君は、喋らなかった。私と宰相、立花は、その沈黙を承諾と捉え、彼女に退学届の提出を翌日の朝と約束させ、退出させた。今日が、彼女にとって最後の高校生としての日だ。そして今宵が、高校生という名が通用する最後の夜だ、若さに溢れた瑞々しい肉体を男たちの手中へと堕とすがいい。存分に弄ばれるがいい。私の目には、既に彼女の末路が見えている。




