第8話 やさしい旨み丼とひより自身の味
朝の空気は、いつもより少し軽かった。ひよりはまな板の前に立ち、深く息を吸い込む。
「……今日は、新しい味を作ってみたい」
祖母の味でもなく、誰かの記憶でもなく、ただ、自分の手で作る“ひよりの味”。
湯気がふわりと立ちのぼり、その揺れ方がいつもより明るい。
カツ葉が勢いよく飛び出す。
「御意っ! 拙者、未知の料理も得意でござる!」
みそらは静かに浮かぶ。
「ひよりさんの気配が、少し軽いですね」
ひよりは笑った。
「なんか、今日は作れる気がするんだ」
ひよりが作ろうとしているのは、鶏と野菜のやさしい旨み丼。
鶏もも肉を一口大に切り、玉ねぎを薄く、小松菜をざくざく刻む。
昆布と少しのかつおで取っただしを合わせると、ふわっとやさしい香りが広がった。
鶏の甘い脂と、だしの柔らかい香りが混ざり合う。
ひよりは一度味見する。
「……悪くないけど、なんか“私の味”じゃない」
鶏の旨みが強すぎる。野菜の甘さが弱い。全体の気配が“どこかの家庭の味”で止まっている。
湯気が少しだけ迷っているように揺れた。
カツ葉の「もっと勢いでござる!」につられて火を強めると、少し味が荒くなった。
みそらの「もう少し優しくてもいいかもしれません」という言葉に合わせると、今度はだしの輪郭がぼやける。
ひよりは味見をして、首をかしげた。
「……今日は、二人の真似をするんじゃない気がする」
「むむっ!」
「では、ひよりさんが思う味にしてみてください」
ひよりは苦笑した。
「うん。私の味を探してみる」
湯気がふわりと揺れた。
戸がそっと開く。
いつもの常連のお客さんが入ってきた。
入口から二番目の窓側の席に、いつものように迷いなく座る。
ひよりを見ると軽く手を上げ、
「今日は、なんか新しい匂いがするね」と言う。
メニューを見ずに、湯気の方向を一度だけ確認する癖もいつも通り。
ひよりは試作品をそっと出した。
常連は箸を持つ前に、湯気をじっと見てから食べる。
その食べる前の一拍が、食堂の日常を作っていた。
一口食べる。
「……ひよりさんの味だね、これ」
「え……おばあちゃんの味じゃなくて?」
「うん。似せようとしてないのに、ちゃんとこの店の味がする」
ひよりは思わず、もう一度丼を見た。
自分ではまだ、何が「ひよりの味」なのか分からない。
それでも、誰かにはもう届いていたらしい。
ひよりは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
常連のお客さんは立ち上がり、少し照れたように言った。
「ひよりさん。この味、もうひより食堂の味だよ」
ひよりは小さく息をのんだ。目の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
「……ありがとう」
湯気がやさしく揺れた。
お客さんを見送ったあと、ひよりは残った丼を一口食べる。
「……これ、私の味なのかな」
「ひよりさんが作った味です」
みそらが静かに答えた。
カツ葉も勢いよく胸を張る。
「御意! 次はさらに気合を――」
「次も私の味で作らせてね」
「むむっ!」
ひよりは笑って、もう一口食べた。
まだ完成した味ではない。
でも、それでいいような気がした。
湯気がふわりと揺れ、
ひより食堂の朝は、今日も少しだけ新しかった。




