第6話 みそらとひより食堂の静かな記憶
朝の仕込みを始めたひよりは、味噌汁のだしをゆっくり取っていた。
湯気がふわりと立ちのぼり、指先にやさしい温度が残る。
カツ葉が勢いよく湯気を揺らしながら飛び出す。
「拙者、本日も気合十分でござる!」
みそらは静かに浮かんでいた。いつも静かなのに、今日はその静けさが少しだけ深い。
ひよりは首をかしげた。
「みそら、なんか……静かすぎない?」
みそらは小さく揺れながら答える。
「……今日は、少し気配が重いだけです」
その声は、湯気の奥に沈んでいくようにやさしかった。
ひよりが味噌汁をかき混ぜると、湯気がいつもより落ち着きすぎていることに気づく。
火が弱いわけではない。ただ、鍋の上に静けさが張りついているような感覚。
カツ葉がむむっと湯気を揺らす。
「むむっ! 静けさが強すぎるでござる!」
ひよりは苦笑した。
「……みそら、今日はどうしたの?」
みそらは少しだけ目を伏せるように揺れた。
「すみません。少しだけ、思い出すことがあって」
その言葉は、湯気よりも静かだった。
昼前、戸がそっと開いた。静かな女性がふらりと入ってくる。
歩く音も、声も、みそらの気配に似ていた。
「……味噌汁、ありますか」
ひよりはそっと出した。湯気が静かにお客さんの前へ流れる。
お客さんは一口飲む。そして、ほんの少しだけ目を細めた。
「……ああ、この静けさ、好きだな」
ひよりは思わず聞き返す。
「静けさ……ですか?」
お客さんはゆっくりうなずいた。
「昔、よく通っていた食堂があってね」
「食堂?」
「店主が静かな人だったんだ。料理を置いて、『どうぞ』って言うくらいでね。でも、不思議と落ち着いた」
みそらの湯気が、ほんの少し揺れた。
お客さんの言葉を聞いたみそらが、ひよりの横にそっと浮かぶ。
「……静けさは、誰かを安心させることがあります」
ひよりは息をのむ。
「みそら……?」
みそらは湯気をゆっくり揺らした。
「……私も、昔……静かな台所にいました」
「誰がいたのかは、思い出せません。でも……その人の料理が、好きでした」
それ以上は語らない。でも、ひよりには十分だった。
みそらの静けさは、ただの性格ではなく、誰かの台所の記憶から生まれたものなのかもしれない。
お客さんが最後の一口を飲み干した。いつもなら騒ぎ出すカツ葉だが、今回はみそらの醸し出す空気に気圧されたように、そわそわと湯気を揺らすだけだった。
お客さんはふっと立ち上がり、満足そうに微笑んだ。
「……ありがとう。今日は、静けさを感じたくて来たんだ」
やがて、お客さんは静かに食堂を出ていった。
ひよりは空になった椀を片づけながら、みそらを見る。
「みそら殿」
カツ葉が珍しく静かな声を出した。
「はい?」
「思い出せぬなら、無理に思い出さなくてもよいでござる」
みそらが少し驚いたようにカツ葉を見る。
「……カツ葉さんが、まともなことを言いました」
「むむっ!? 拙者はいつでもまともでござる!」
ひよりは味噌汁を一口飲む。静けさが、味をやさしく包んでいた。
「……みそらの静けさって、やさしいね」
みそらは少しだけ照れたように揺れた。
「ひよりさんの料理が、そうさせるんです」
カツ葉が悔しそうに胸を張る。
「御意! もちろん拙者の気合も――」
「今日は静かにしててね」
「むむっ!」
みそらが小さく笑った。
その笑顔を見て、ひよりもようやく安心して味噌汁をもう一口飲んだ。




