第3話 塩むすびとひより食堂のぬくもり
朝の仕込みを終え、ひよりは炊きたての白米をほぐしていた。
湯気がふわっと立ちのぼり、指先にほんのり温かさが残る。
その香りだけで、胸の奥が少し落ち着く。
「拙者、本日も御意でござる!」
カツ葉が勢いよく炊飯器の上を飛び回った。
「今日は何を作るでござる? 拙者、戦の準備は万端!」
「戦じゃないよ……おにぎりを作ろうと思って」
ひよりは笑いながら、手のひらの湯気をそっと払った。
みそらが味噌汁の湯気から静かに現れる。
湯気の揺れ方まで穏やかで、朝の空気にすっと馴染む。
「カツ葉さんは、カツ丼の精霊ですよね……?」
「御意っ! 拙者、握りの達人でござる!」
「達人なの?」
「達人でござる!」
勢いだけは本物だった。
「じゃあ、二人とも手伝って。まずは塩むすびね」
カツ葉は湯気を勢いよくひよりの手元に寄せる。
「拙者、豪快に握るでござる!」
「豪快にって……こう?」
カツ葉につられて、ひよりの手にぐっと力が入りすぎて米がぼろぼろと崩れた。
「……豪快すぎ」
ひよりはため息をつきながら、崩れた米をそっと集め直す。
みそらは湯気を包むように整えた。
「こうして、ゆっくり形を整えて……」
ひよりの手が慎重になりすぎて、
今度は小さすぎる三角形ができあがる。
「拙者のより小さいでござる!」
「あなたのが大きすぎるんです」
二人の温度差に、ひよりは思わず肩をすくめた。
結局、ひより自身の感覚で握ることにした。
塩をつけて握っているうちに、
ふわりと立ちのぼる湯気が、胸の奥を揺らした。
「……この感じ、なんか懐かしい」
祖母が毎朝作ってくれた塩むすび。特別な具はないのに、やさしい味だった。
「おばあちゃん、どうやって握ってたんだろう」
ひよりは小さくつぶやいた。
みそらが静かに寄り添うように浮かぶ。
「ひよりさんの手が、覚えているんですよ」
しばらくして、一人の年配の男性が店に入ってきた。
「今日はおにぎりがあるのかい?」
試作品だが、ひよりはそっと差し出した。
男性は大きなおにぎりを手に取り、がぶりとかじった。
男性の口元が、ふっと止まった。
しばらく、おにぎりを見つめていた。
「……懐かしいな、これ」
ぽつりとこぼした声は、少しかすれていた。
ひよりは、その目がほんのり潤んでいるのを見逃さなかった。きっと、このおにぎりの向こうにある、誰かの笑顔を思い出しているのだ。
ひよりの胸がじんわり温かくなる。
自分の料理が、お客さんの思い出を呼び起こすきっかけになるなんて。
お客さんが最後の一口を食べた瞬間、
カツ葉が突然光り始めた。
「むむっ! 願いを感知したでござる!」
ひよりは慌てて叫ぶ。
「ちょっと待って! その光、前にも見た! 今度は三百人呼ばないでよ……!」
カツ葉は胸を張る。
「御意! 今回は慎重に――」
「む、む……?」
カツ葉がちいさな首を傾げると、みそらがその前にそっと立ちはだかり、優しい声で諭した。
「その願いは、精霊の力で無理やり叶えるものではありません。ひよりさんのおにぎりが、もう背中を押しました。あとは、その方ご自身が一歩を踏み出せばいいのです」
もちろん、カウンターの男性に精霊たちの声は聞こえない。けれども、店内に満ちた温かい湯気を胸いっぱいに吸い込んだ男性は、ふっと肩の力が抜けたような顔をした。
そして、ポケットからスマートフォンを取り出した。
しばらく画面を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……よし。久しぶりに、娘に電話でもしてみるか」
男性はつぶやいた。
お客さんが帰ったあと、
ひよりは残った塩むすびを一つ食べる。
「おばあちゃんの味には、まだ遠いかな」
「でも、今日のおにぎりは、ひよりさんの味でしたよ」
「御意! そして拙者の気合も――」
「それはいらない」
「むむっ!」
湯気がふわりと揺れた。
ひより食堂の朝は、今日も少しだけにぎやかだった。




