第2話 味噌汁の湯気とひより食堂の思い出
カツ丼騒動から数日後の朝。
ひよりは味噌汁の鍋をかき混ぜながら、数日前のカツ丼を思い出していた。
「拙者、今日も元気でござる!」
カツ葉は朝から元気いっぱいで、湯気の上をふわふわ飛び回っている。
「あの時のカツ丼、うまかったでござるな!」
「……味より騒ぎの方が印象に残ってるよ」
ひよりは苦笑しつつ、味噌を溶かす。
そのときだった。
鍋から立ち上る湯気が、ふわりと落ち着いた揺れ方をした。
いつものカツ葉の勢いとは違う、静かでやさしい気配。
「む……? 拙者の湯気ではないぞ」
カツ葉が眉をひそめる。
ひよりは鍋を覗き込んだ。
湯気が、まるで誰かの手が添えられたように、ゆっくりと形を整えていく。
「……朝は静かにしましょう」
やわらかい声が、湯気の奥から聞こえた。
ひよりは思わず息をのむ。
カツ葉は湯気を揺らして前に出た。
「名乗れい! 拙者の城に入る者、誰でござる!」
「城じゃないよ、食堂だよ……」
ひよりが小声で突っ込む。
湯気がふわりとほどけ、その中から小さな影が姿を現した。
「私はみそら。味噌汁の精霊です」
落ち着いた声。
やさしい揺れ。
朝の空気にぴったりの気配だった。
カツ葉は腕を組んで、むむむと唸った。
「拙者より静かすぎるでござる……」
「あなたが騒ぎすぎなんだよ」
ひよりは思わず笑ってしまう。
みそらは鍋の上にそっと浮かび、湯気を整えるように手を動かした。
「ひよりさんの味噌汁、やさしい味ですね」
「え……ありがとう」
ひよりは少し照れた。
祖母が毎朝作ってくれた味噌汁の記憶が、ふっと胸に浮かぶ。
湯気の立ち方、味噌を溶くお玉の音、
だしのやさしい匂い。
その全部が、胸の奥にそのまま残っていた。
祖母のやさしい笑顔と同じように、温かい思い出が広がっていく。
カツ葉はその様子を見て、湯気を大きく揺らした。
「拙者も負けておられぬでござる!」
みそらはくすっと笑った。
「にぎやかな朝も、悪くありませんね」
ひよりは二人の精霊を見ながら、小さくつぶやいた。
「……精霊って、本当に料理の性格そのままなんだね」
みそらは、ひよりの顔をじっと見つめた。
「ひよりさん、少し顔色がよくないようですが」
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
湯気がふわりと揺れた。
食堂の朝は、今日も少しだけにぎやかだった。
ところが、その日の昼前。
ひよりは仕込みを始めようとして、ふらりと足を止めた。
「……あれ?」
額に触れると、少し熱い気がする。
「ひより殿、昼の戦は何でござる?」
「……戦じゃないよ……」
ひよりは笑おうとしたが、いつもより声が弱かった。
みそらが静かに近づく。
「ひよりさん、やっぱり少し疲れていませんか?」
「そうかな……ちょっと体が重いだけ」
ひよりはそう言ったものの、立っているのが少しつらい。
カツ葉が慌てて飛んできた。
「ひより殿、今日は休むべきでござる!」
みそらも頷いた。
「無理をしないほうがいいです」
「でも……昼の仕込み、やんなきゃ……」
ひよりはまな板に手を伸ばした。
けれど、いつものように体が動かない。
その様子を見たカツ葉が、すぐに前へ出た。
「拙者、仕込みを手伝うでござる!」
「カツ葉に任せたら、食堂が大変なことになるよ……」
「むむっ!」
みそらが静かに微笑んだ。
「全部は無理でも、私たちにできることならあります」
「え?」
「人間用の包丁や鍋は、私たちには大きすぎます。でも、小さな物を運んだり、準備をしたりするくらいなら」
カツ葉が胸を張った。
「任せるでござる!」
ひよりは二人を見つめた。
ついさっき出会ったばかりのみそらまで、心配そうにこちらを見ている。
「……じゃあ、少しだけお願いしようかな」
カツ葉は小さな食材を両手で抱えて運び始めた。
「よいしょ……! これはなかなかの強敵でござる!」
「無理して一度に持たなくていいよ」
みそらは必要な物をひとつずつ揃えながら、静かに言った。
「カツ葉さん、そちらではありません」
「む?」
「それはお昼の仕込みには使いません」
「……御意」
「早速間違えてるじゃん」
ひよりは思わず笑った。
二人だけで食堂の仕込みを全部できるわけではない。
けれど、ひよりが休めるように、小さな体でできることを探してくれている。
ひよりは椅子に座った。
背を少し丸めると、思っていたより体が楽になった。
誰かに任せる。
それだけのことなのに、少し不思議な気持ちになる。
「……こういうの、久しぶりだな」
「何がでござる?」
「誰かに任せて、休むの」
カツ葉は運んでいた物を置いて、ひよりを見上げた。
「ならば、今日は拙者たちに任せるでござる」
みそらも静かに頷く。
「ひよりさんが元気になるまで、私たちがいますから」
ひよりは二人を見つめた。
「……ありがとう」
結局、その日の昼の仕込みは最低限にして、食堂は無理をしないことにした。
「味噌汁くらいは飲もうかな」
ひよりが自分の分を器によそう。
「少しだけでも飲んでください」
「うん」
ひよりは味噌汁をゆっくり一口飲んだ。
だしのやさしい味が喉を通るたびに、
祖母の朝の台所がふっと浮かぶ。
「……落ち着く」
ひよりは息をゆっくり吐いた。
カツ葉が胸を張る。
「拙者の気合も入っておるでござる!」
「いや、味噌汁は朝に私が作ったんだけど」
「むっ……!」
みそらがくすっと笑う。
ひよりも笑った。
朝までは、カツ葉と二人だった。
今は、みそらもいる。
まだ出会ったばかりなのに、
二人がそばにいてくれることが、なんだか嬉しかった。
湯気がふわりと揺れる。
ひより食堂の湯気は、
いつもより少しだけやさしかった。




