アルノルト4
最近、王宮の一部で、きな臭い動きがあった。
武器の横流しが行われているという密告が入ったのだ。
本来、副団長という立場で街を巡回することは
ほとんどない。
それは新兵たちの務めである。
だが、どこで誰が繋がっているか分からない以上、
自らの目で確かめる必要があった。
書類仕事を早々に片付け、ある商会へ向かう。
表向きは健全な商会。
教会への寄付も欠かさず、慈善活動にも熱心で、
非の打ちどころがない。
店内を見回しても、不審な点は見当たらない。
しかし、一人の男と目が合った瞬間だった。
何かを訴えるような視線。
アルノルトは何気ない仕草で近づき、
小さく折り畳んだ紙を男へ渡した。
――いつでも相談に乗る。
王宮騎士団副団長
アルノルト・フォン・シュタイン
男は驚いたように目を見開いたが、
何も言わず紙を懐へしまった。
(反応はあった)
そのまま店を後にする。
そして、ふと裏路地へ目を向けた瞬間。
アルノルトの足が止まった。
(……ヴィオラ?)
そこにいたのは、最愛の妻だった。
街へ出るとは聞いていない。
しかも、人目を避けるような地味なドレス姿で、裏通りに一人。
誰かと待ち合わせか。
胸の奥がざわついた。
「――何をしている」
「アルノルト様……」
「こんな時間に、こんな場所で、
一人で何をしている」
できるだけ感情を押し殺し、静かに問い掛ける。
ヴィオラは小さく後ずさった。
その仕草だけで、アルノルトの胸は嫌な音を立てる。
(まさか。)
散歩。
近道。
適当な言い訳はいくらでも思いつく。
だが、人目のない裏通り。
地味な変装。
そして、自分に黙って外出。
最悪の想像ばかりが頭をよぎる。
「……俺以外に男か」
静かに告げると、ヴィオラは目を丸くした。
「違います!」
そして慌てたように続ける。
「アルノルト様以外に男も旦那様も必要ありません」
アルノルトは息を呑む。
「アルノルト様でいっぱいです」
その瞬間。
胸を締めつけていた不安は、音を立てて崩れ去った。
(……俺で、いっぱい。)
その言葉だけで十分だった。
浮気などあり得ない。
そう確信できた。
アルノルトは満足そうに頷き、
当然のようにヴィオラの手を握る。
「帰るぞ」
「えっ?」
「危険な場所だ」
妻を守るのは、夫の務め。
それ以上の理由など必要なかった。
ちょうどその時、部下たちが駆け寄ってくる。
「副団長!」
アルノルトは迷いなく告げた。
「今日はここまでだ。妻の具合が悪い」
「えっ!? 奥様が!」
部下たちは一斉に顔色を変えた。
アルノルトは真剣な表情のまま頷く。
「ああ。俺がついていなければならない」
「こちらはお任せください!」
部下たちは慌ただしく持ち場へ戻っていった。
ヴィオラは呆然と立ち尽くしている。
(危険な場所へ、俺に黙って来る。)
(これは重症だ。)
もっと一緒に過ごす時間を増やそう。
もっと構おう。
もっと安心させよう。
きっと、それが足りなかったのだ。
(構い方が足りないのかもしれないな)
屋敷へ戻る馬車の中。
ヴィオラの隣に座るアルノルトは、
すっかり機嫌を直していた。
「今度、俺の休みに合わせて出かけないか。
この間話した観劇の件だが」
「……はい」
どこか上の空で返事をするヴィオラ。
(観劇では喜ばないか。)
(宝石……いや、花の方がいいのか。)
(女心は難しい。)
「聞いているのか?」
「え、ええ。もちろんです」
「本当か? さっきから心ここにあらずだが」
追及はしなかった。
焦る必要はない。
(ゆっくり時間をかけて、ヴィオラの好みを知ろう)
(俺たちには、これからたくさんの時間がある。)
自然と笑みが浮かぶ。
「まあいい」
アルノルトは穏やかに笑った。
「俺はヴィオラの旦那だからな」
「唯一、生涯たった一人の男というわけだ」
ヴィオラは照れたように視線を逸らした。
(よし)
(ヴィオラを虜にさせる)
密かに拳を握るアルノルトだった。
◆
湯船に浸かりながら、例の商会のことを思い返す。
(何か動きがあればいいのだが……)
一度、湯を顔にかけて気持ちを切り替える。
その瞬間だった。
湯船から勢いよく立ち上がる。
湯が大きく波立ち、床へ飛び散った。
(しまった……!)
任務の途中で見つけた髪飾り。
「ヴィオラに似合う」
そう思って迷わず買ったというのに、
すっかり渡し忘れていた。
急いで身支度を整え、
机の引き出しから小さな包みを取り出す。
掌に収まるほどの箱を見つめ、自然と口元が緩んだ。
(喜んでくれるだろうか)
いや。
喜んでほしい。
ただ、それだけだった。
包みを手に寝室へ向かう。
控えめに扉を叩くと、中から静かな返事が聞こえた。
「まだ起きていたのか」
扉を開けると、ヴィオラは窓辺に座り、
夜空を眺めていた。
「アルノルト様」
その声だけで、
一日の疲れが溶けていくような気がした。
「巡回の途中で見つけた」
そう言って、小さな包みを差し出す。
「君に似合うと思って」
ヴィオラは少し驚いたように目を丸くし、
両手で丁寧に受け取った。
ゆっくりと包みを開く。
現れたのは、
小さな花をあしらった可憐な髪飾りだった。
「……ありがとうございます」
その声は、とても優しかった。
「気に入らないか?」
思わず尋ねてしまう。
するとヴィオラは小さく首を横に振った。
「いいえ。とても嬉しいです」
その一言だけで十分だった。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「そうか」
思わず笑みが零れる。
「付けてもいいか」
ヴィオラは少し照れたように微笑み、
小さく頷いた。
アルノルトは髪飾りを受け取ると、壊れ物に触れるようにそっと黒紫の髪へ飾る。
指先が触れるたび、鼓動が少し速くなる。
「……似合う」
心からの言葉だった。
ヴィオラは照れくさそうに微笑む。
「ありがとうございます」
「いや」
アルノルトは静かに首を振った。
「ありがとうは俺の方だ」
「?」
不思議そうに首を傾げるヴィオラを見つめながら、
優しく笑う。
「君が喜んでくれた」
「それだけで十分だ」
ヴィオラはしばらく髪飾りに触れていた。
まるで大切な宝物を確かめるように。
その姿を見ているだけで、胸が満たされていく。
(よかった)
高価な宝石ではない。
特別に珍しい品でもない。
それでも、自分が選んだ贈り物を彼女が
嬉しそうに受け取ってくれた。
その事実だけで、これ以上望むものはなかった。
(また贈ろう)
次は花がいいだろうか。
それとも観劇の帰りに、
彼女が気に入ったものを買おうか。
そんな未来を思い描きながら、
アルノルトは穏やかに微笑んだ。




