加速
見回す、というほど広くはない部屋を莉子は最後にもう一度だけ確認する。暖房をとうに切った部屋に、身に纏ったダウンの音だけがシャカシャカと響いた。
家具も物も、人が生活していた証を何一つ残していない部屋は、いつもとはまるで別物のようだ。手にした鍵すらもいつもより重く感じられて、莉子はそれを愛でるかのように優しく撫でた。
引っ越そう、そう思い立ったのは三月に入ってからだった。転任するでも、転職するでもないのに急に。
それはきっと、今が人生の区切り目だと悟ったからなのだろう。
三年間持ち上がった生徒が卒業したばかりだった。一人一人の名前を呼んで、返事を聞いていく。毎朝していたことのはずなのに、どうにも口が上手く周らなかった。
名前を呼んで、返事と共に見える顔に驚かされる。皆、まるで別人のような凛々しさをたたえて、前を見据えているのだ。毎日、目の前のことに必死で気付けなかった成長を、莉子はその時になってようやく知った。
同時に痛感する。そのことを伝える手段も、時間も、莉子にはもう残されていないことを。
「さよならだ」
わざと声に出して莉子は鍵穴にちっぽけな金属の板を差し込む。かすかに躊躇って、それでも手首を捻る。
ガチャリ、ここでの生活に別れを告げる音。日常を思い出へとラベル替えする合図がした。
慣れた緑のSUVにゆっくりと乗り込む。左手、助手席の向こう。大学時代から住み続けてきたアパートがそこにはある。私が住んで、彼が増えて。そしてまた一人に戻って。そんなあの部屋も、ついに誰もいなくなるのだ。そして春になればきっとまた誰かが、私よりもずっと若い誰かが住むのだ。
ようやくかけたエンジンはいつもよりも少し、くぐもった音を立てた。
アクセルを踏み込む。毎日が詰まっていた場所は後ろへ走り去り、莉子の人生から消えていく。そして流れていくこの景色も。
通勤中よりもはるかに速く、相棒のSUVは住宅街を走り抜けてしまう。まるで莉子に感傷に浸る時間を与えないかのように。
それでも国道と合流する交差点で、車は停まった。やっぱりこの信号はいつ来ても引っかかるな。思わず笑ってしまう。長く住んでいたはずなのに、ここで停まらなかった日は思い出せなかった。
左手に目をやる。茶色が目立つ庭が見えた。もう少し遅い時期だったら、庭が色付いていたら、私はあの部屋を出ていくことができなかっただろう。まもなく訪れる鮮やかさを滲ませる木々に、少しだけ口惜しさを覚えた。それでも、後悔はない。自分で決めたことだから。
信号はもうじき青に変わるだろう。莉子は目線を前へと戻し、カーナビのモニターをいじった。
視界の隅で赤色が、青になる。ほとんど同時に莉子は指をカーナビから離した。
車はいつものように国道を左に曲がって、加速する。どんどん進んで行く車をあの日の歌が包む。
「行こうか」
誰でもなく、自分に向かってそう声をかけ、莉子はさらにアクセルを踏んだ。
冬が終わる、なんとなくそんな気がした。




