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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
第十六章 三桜晴斗 錦見夏希
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夏希

「遅かったね」

歩み寄った晴斗に、彼女はそう言う。

「ごめん」

空白を埋めるように晴斗はそう口にしている。《《何が》》遅かったのか、その真意は晴斗には分からない。見舞いに来なかったことか、今日の約束の時間のことか。


晴斗の視界の端で、病棟の窓ガラスが反射してきらめく。



晴斗は視線をゆっくりと夏希に移した。分厚いパジャマに、コート。あまりに不釣り合いな様だ。

「変な格好だなって、思ったでしょ」

少しませた女の子のように、彼女は晴斗を見上げてニヤリと笑う。

「ばれた?」

晴斗も軽口を返す。

「ばればれ」

楽しそうに夏希は笑う。



強がりだ。夏希も俺も、強がっている。そしてそのことに、互いに気付いていた。彼女の潤んだ瞳が、隠し切れぬ病状を示しているようで、思わず視線を逸らしそうになる。

ふざけんなよ、そう自分を叱りつけて、晴斗は喉に力を込めた。込み上げた感情が、募った弛緩が、決壊することが怖かった。自分には泣く資格はないのだから。


「ねぇ、晴斗」

瞼に力を入れたまま、晴斗はまた夏希を見つめる。

「散歩、しようよ」

そう夏希は小さく笑った。



 部活を引退してから筋肉を失った腕の先、それよりもずっと細い姿の夏希がいる。小さな段差の振動すら、怖い。砂とバケツで作った城のように、パラパラと彼女が崩れてしまうのではないかと恐れた。

 ゆっくりと慎重に、まるで書初めの本番のように手を震わせながら、晴斗は彼女を押す。小さな中庭を車いすは周る。ほとんど移ろわない景色を、それでもそのすべてを慈しむかのように、何も言わずに夏希は眺めていた。


 あんなにゆっくりだったのにと驚くほどにすぐ。二人は中庭の探索を終えてしまう。気付けば晴斗の体はまた縞模様の影を落とす緑廊の中に戻っている。さっきと何も変わっていない庭。ただ影だけが、少し横に伸びたばかりだ。

「ありがとう」

手元で夏希がささやくようにそう言う。

「晴斗も座りなよ」

何も返せずにいた晴斗に夏希はベンチを勧める。



 まだ新しいベンチに座ると、ほとんど正面に夏希が見えた。彼女の瞳が見える。傾いた西日を受けて、彼女の左半身は真っ赤に輝く。まるで彼女の中の何かを燃やし切ろうとするかのように熱く。

 光の中で、夏希の目が晴斗を捉える。視線が絡む。晴斗は何も言えない。自分の知っているどんな言葉も、感情も

、想いも、その全てがまるで間違いで、似つかわしくない。

 喉が痛かった。それでも力を緩めれば感情が漏れてしまう。だからもっと、晴斗は下顎に、瞼に、腹筋に、力を込めるのだ。それが例えどれだけみっともないことだとしても、その方がずっとましだった。


「何も話さなくて、いいの?」

不意に夏希の口が開く。

「え…………」

そんなこと当たり前なのに、晴斗は戸惑う。

「それじゃぁ、晴斗からね」

追い打ちをかけるかのような夏希の声。それにうっかりつられたような涙が彼女の頬に一線を落とす。どんどん頬を落ちていくそれを思わず見つめてしまう。だがそれはすっと消える、薄い赤色がそれを覆って。


 彼女が舌で舐めたのだ。てへっと笑いながら舌を戻す夏希の鼻が二度揺れる。くしゃみの前兆のような引きが、夏希の顔に走った。瞳はもう真っ赤だ。



 顔が歪む。小さな喘ぎのような声が何度も漏れ、顔は小刻みに揺れる。



「何も言わないの?」

涙に濡れた顔で彼女は無理して笑顔をつくる。

「泣いてないでなんか言ってよ、晴斗」

泣いているのは自分の方だと言うのに

「そっちこそ」

震えた声でそれしか返せないのはきっと………


晴斗はなぜか立ち上がっている。乱反射した光で視界はまばゆく、霞む。それでも足を前に出して歩み寄っていく。

固い椅子の上で揺れる小さな肢体。

濁った瞳を手の甲で乱暴に払った。途端に夏希が鮮やかに映る。すぐに霞む瞳は、もう彼女を離さない。


「晴斗」

首を目一杯上向けて、夏希が晴斗を見ている。

「高いよ」

また、笑う。その顔に、慌てて晴斗は腰を落として、彼女の前に膝立ちになった。

すぐ目の前に、指を伸ばせば届くほどに近く夏希の顔を見る。大きな瞳が、晴斗を吸い込もうとしていた。



その刹那、晴斗は全身に熱を覚えた。陽光とも、火照りとも違う、柔和な熱さ。


はっとした。


息遣いが聞こえそうなほどに近く、夏希の横顔がある。

眠っていた力をすべて出し切ろうとするかのように、その細い腕は晴斗を抱き寄せていた。


感情が溶けていく。熱に溶かされていく。そう分かる。

自然に晴斗は彼女の崩れてしまいそうな背に手をまわしている。



言葉もなく、ただ夏希の熱を全身に感じる。

落ちていく陽も、伸びる影も、速い鼓動も。まるで強く引いた潮が攫ってしまったかのように覚えられず、ただ熱だけが確か。


これが全てだ。この痛みが。この熱が。息遣いが。そして耳を打つ嗚咽が。今感じる全てが夏希で、それが夏希の全てだ。そう強く思う。



風が吹く。まつ毛についた水滴を風が運ぶ。

彼女も同じであって欲しい。やっぱり自分勝手に晴斗はそう願う。





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