弥生
スーツを捨てるように脱ぎ、ベッドに放る。薄手の生地がパサリと音を立てて、まだ分厚い掛け布団に落ちた。体を包んでいた窮屈な張りが消え、皮膚に血が通う。気持ちよくて、快適。それなのにその解放感に一抹の心細さを覚えるのは何故なのだろうか。
夕刻になりつつある街の中、晴斗はもう一度玄関の扉を抜けた。ビル風がコートに包まれた私服の下を強く刺す。一瞬、息が止まり、それでも晴斗の足は進む。それも早足に。
今日、高校生活が終わった。三年間はもう全て過去に変わり、ついさっきだったはずの卒業式すら、もう思い出となりつつあった。部活も、修学旅行も、下駄箱も、保健室も、その全てがない世界を四月からの自分は生きるのだ。想像もつかないほど漠然と晴斗は思う。
マンションを出ると、野球部であろう学生とすれ違った。真っ黒に日焼けし、肩にはバットを、背には大きなリュックを背負っている。その横に付いた手作りのお守りには、甲子園の文字が見えた。あぁ、そうか。この先の人生で見る球児は皆、自分よりも年下なのだ。そんな当たり前の事実が、なんだかとても寂しいことのように思える。
春からの自分はどこにいるのだろうか。まだ何も決まっていないのに、高校からは出ていかねばならない。パラシュートを着けずにスカイダイビングをさせられているような、いやな浮遊感がまとわりついていた。
駅に着く。人工物で囲まれた空間に、申し訳ばかりに植えられた梅。もうじき咲くのだろうか、枝の先はかすかに色めいている。だがそれが開くよりもずっと早く、バスは晴斗の前に滑り込んでしまう。
バスは唸りを上げて、坂を下っていった。山に埋もれたような病院の前に一人取り残された晴斗は理由も無く大きく息を吐いている。
夏希の見舞いに来るのは、随分久しぶりのことだった。どんなに言葉で取り繕おうとも、結局晴斗は自分の人生を彼女の見舞いよりも優先したのだ。だがそのことへの後悔は、ずっと薄まっていた。それがやり切ったからなのか、それ以外の何かによるところなのか。その本質を晴斗は知らない。
透明な自動ドアを潜る。このドアを自分は何度通ったのだろうか。思い出せないほどだ。その先に待つ夏希にばかり気を取られ、薄く模様が入っていたことすらも自分は知らなかった。そんな自分に晴斗は笑ってしまう。
階段を上り、病室に着く。たった四階まで上がるだけで、暴れた息も張った筋肉も、それが序章とばかりにまた少し緊張を見せる。それでも晴斗はほとんどためらいなく、扉を叩く。返事は、無い。僅かに逡巡して、それから晴斗は扉を横に滑らせた。
部屋に、ベッドの上に夏希の姿はなく、そこは柔らかい日差しが差し込むばかりだった。
晴斗の手は銀色の取っ手から離れた。屋根から滑り落ちる雪のようにゆっくりと、扉は晴斗の鼻の先で閉まる。足が勝手に動き出す。
何かに引き寄せられるように、自然と進む。階段を下って、気付けばやたらと古い病棟へと入った。採光の少なさのせいなのか、昼間だというのに薄暗い廊下。その中を足はどんどん進んで行く。
重そうな扉。薄汚れた白色のそれに、手がかかっている。力が入った。
パッと光が漏れて、廊下に水たまりのように広がる。それはどんどんと大きくなって、廊下にぽつんと現れた島のような輪郭を帯びた
まるで古い病棟がそこだけを必死に守ったかのような美しい庭園が、扉の向こうにはあった。手が触れたら壊れてしまいそうなほど儚く、痛いほど鮮やかだった。
その真ん中、緑廊の下に夏希の姿が見える。この空間だけまるで違うかのように、彼女は生気に溢れている。彼女が晴斗に気付く。
これがきっと最後。そう晴斗は知っている。込み上げてきた感情を誤魔化すかのように、晴斗は陽炎の中へと踏み出した。




