断髪
泳いでいた。プールではない、もっとずっと広くて、深いところ。
海だ、口に流れ込んだ潮の味と、鼻の奥の痛みにそう気付く。荒れ狂う大洋の中で独り、ひたすらに晴斗はもがいていた。もがくのをやめたら、死ぬ。本能がそれを分かっているかのように。瞬間か永遠か。時間すら分からぬ茫漠とした水の山の中を、向きも知らぬままに。
はっとする。大波が顔に影を落とす。息が詰まるその刹那、波の後背に何かが見えて………
大きく息を吸い込みながら、晴斗の目は開いた。息は荒く、背中には変な汗が滲んでいた。間抜けにぽかんとした口元を拭って、その手で時計を引き寄せた。午前5時半、もう起きるにはいい時間だった。厳冬に包まれた窓はまだ暗闇の中にあるのか、カーテンの隙間からは光一つ差し込んではいなかった。
「朝か」
体に言い聞かせるように、晴斗はつぶやく。朝が来る。それは猶予が一日減ったという紛れもない証であり、どうしようもない現実。受験勉強に本腰を入れ出してから、ひたすらに苦痛だったそれを、最近の晴斗は驚くほど前向きに受け入れるようになっていた。
「あと一ヵ月だ」
また声に出している。声は無味な天井に飲み込まれた。
徐々に人生が形作られていくような、そんな強い感覚。それがきっと自分の胸中を変えたのだろう。一発勝負、その一瞬で決まってしまうと思っていた人生は、実のところもっと小さな瞬間の集まりだった。シャーペンの芯を入れ替えるたびに。ノートをめくるたびに。消しゴムのかすを手で払うたびに。そんな思いがすっと胸をよぎり、重荷を解き、張り詰めた自分を弛緩させた。
その一瞬が、まるでこれまでの時間の証明のようで、未来に繋がる大海のようだった。その刹那を晴斗は必死にもがく。波浪の隙間、影の向こうに、何かあると信じて。
「よし、行こう!」
喝を入れ、勢いのままに体を起した。キィっとベッドがかすかに軋む。
外が明るくなってきたのはそれから一時間以上たった頃だった。ペンを軽く置いて、カーテンに手をかけ、一気に開く。
鮮魚のような深い藍色に窓を開けると、暖房の効いた部屋を一線の冷気が進んで行った。




