無意識
自分でもよく分からない。なぜこんなに朝早く、いつもより一時間以上も早く教室の扉を開いたのか、その理由が。
精悍で色黒な、それでいて幼さをたたえた顔が莉子に向けられる。眉間にかすかに寄ったしわ、机に触れたままの掌。ようやく角度を出し始めた朝日の中に溶けてしまうそうなほどに小さく、三桜晴斗はいる。普段決して見せることのない、優等生ではない瞳が、頬が、唇が見えた。
その顔に映る怯えが、莉子に迫る。その正体を知らぬまま、どうしようもなく莉子は三桜を見つめる。
何かを言いたそうに彼の口元が揺れる。だが結局、音にはならずに空を切った。教室は変わらず静寂のままだ。私は何がしたいのだろうか。いきなり教室に入って、何を言うでも、何をするでもなく、ただ黙っている。こんなのおかしい。頭は気付いているのに。ちゃんと分かっているのに。体は何もできないままだ。まるで糸を換えようとして、戻せなくなったミシンのように、莉子は固まる。
何か言わなくちゃ。何か彼に言うことがあってここに来たのだ。そのはずなのに、思い出せない。思い出そうとすればするほど記憶の湖の深くへ沈み、徐々に溶けていくような感覚に陥る。記憶の手が空振りして、代わりに焦燥が溢れた。こんなはずじゃなかったのに。
「なんですか?」
はっとして、莉子の目は独り佇む生徒へと戻る。冷たく鋭い目が体を貫いていた。まるでいつもとは別人の顔が浮かぶ。結ばれた口に莉子は戸惑う。優等生の三桜に文句を言いながら、私は彼がそうあることを期待していたのだと、今気付く。
「俺に用があったんですよね」
ぶっきらぼうに冷たい声が続く。そうだ、私は彼に話があった。《《ついさっきまで》》。
朝日に包まれたどこかで鳥が鳴く。
彼の中にあると思っていた綻び、歪み、不安、彼の胸中を知った気になっていた。それでここに来たのだ。来るべきだと思った。私は教師で、彼の担任で、それで……ずっと大人だから。彼を導けると思った。諭すことが可能だと思った。彼はまだ子供で、私にはその資格があると傲慢にも信じていた。
吐き気のような嫌悪感が込み上げて、小さくえずく。私は彼を見下していたのだ。自分は生徒の全てを知っているように思えて、彼らよりも人生を知悉しているような気になっていたのだ。
冷たく変わった朝日が頬に当たって、瞳にはねた。
そんなはずないのに。私はほんの数年前まで彼と同じ高校生で、自分に満足すらできていないのに。どうして他人のことを導けるというのだろう。どうして自分が、他の教師のように上手くやれると思い込めたのだろう。何もできないくせに。
そのすべてを見透かしたような目で三桜は莉子を睨む。気後れして、莉子の足は勝手に半歩下がる。そんな自分を叱りつける余裕すらない。
私は教師に向いていない。いつも免罪符のように使っていたその言葉が、恐ろしいほどの鋭利さをもって胸を裂く。全くその通りではないか。私は教員免許を辛うじて取ってしまっただけだ。間違ってその地位を手にしてしまったに過ぎない。
どうして私なんかに資格を与えたのだろうか。苛立ちの中、筋違いな憤りが胸を蠢く。この期に及んで他者に責任を転嫁しようとする本性に虫唾が走る。こんな自分を恥ずかしげもなく晒しながら、他者を、三桜を推し量ろうとしていた自分があまりにも滑稽だった。
いや違う。突然、冷静さが顔を覗かせる。
違うのだ。ようやく悟る。
向いていないんじゃない。
私に教師などできなかったのだ。
これまで目を背けてきた一つの結論。ずっと分かっていた答え。それを肯定すると、気持ちはまるで嘘のようにすっと楽になった。代わりに生暖かい絶望がゆっくりと胸に浸み込む。
あぁ、そうだ。私はちゃんと教師になれなかったのだ。それだけじゃない、まっとうな大人にすらなれていなかった。ミステリーの終章のように、全てが腑に落ちた。
黒板の影が見えた。教卓の影に重なったそれは、不格好に教室を黒く染める。
教師でもない。大人でもない。人生の先輩でも、友達でも、親でもない。
だから私が話すことができるのはちっぽけな町田莉子として、たったそれだけ。
それすらも不安になりながら、それでも莉子はゆっくりと息を吸った。




