距離
その人は晴斗を焦らすかのようにゆっくりと振り返った。演出のように、風が彼女の髪をなびかせる。舞い上がる長い髪の中に浮かぶ彼女の顔を晴斗は見つめる。一本の雫が伝う、夏希の顔を。
後ろで閉まった扉の立てた耳障りな音が、乾いた空に響いた。
彼女の瞳が晴斗を捉えた。自分の方が先に見つめていたのに、虚を突かれたかのように息が詰まり、目を逸らせなくなる。深い茶色を無垢な白色が囲み、色めく。いつも見ていたはずの瞳が、信じられないほどの神秘となって晴斗に迫った。
不条理だ。衝動が波のように高まるのが分かる。体をかきむしって、喉を涸らすまで叫びたい。自分でも信じられないほどのもどかしさが体を駆ける。目の前の鮮やかな瞳が、秋空に吸い込まれてしまいそうな華奢な躯体が、手が届くほど近くにあると言うのに、見えない力で連れ去られてしまう。そんな恐怖を今更に覚える。
強張った足は動き方を忘れ、晴斗をそこに留める。その向こう、夏希もただ黙って立ち竦む。屋上の古びたコンクリートの上、開いたままの二人の間を強い風が吹いた。
病気が進行している、夏希にそう伝えられたのは夏休みがおおよそ半分ほど終わったころだった。つまらない夏期講習の一日が終わり、だらだらと夜道を進んでいた時だった。LINEに映った文面は驚くほどに淡々としていて、それでいて切実な悲壮を孕んでいた。
一度読んで、茫然と足が止まった。長距離走を終えた後のように唾が上手く呑み込めなくて、喉が小さく喘いだ。漠然とした未来への不安も、一応に行っている塾も、退屈だった講習も、明日までにしなければいけない課題も、つい一瞬前まで頭を占めていたすべてのことが掻き消えた。
死ぬ。とうに知っていたはずのことだ。とっくにそのことを理解していたはずだった。それなのに呼吸すらままならないほどの焦燥と恐怖が溢れた。
「だって……」
すっといたから。病気になってからも、同じマンションの中に居て、時々学校で会えて、一緒に帰ることだってできた。LINEは繋がっていたし、一緒にご飯だって行けた。彼女の笑顔を見て、涙に困惑して、その声を何度も聞いた。
「だから」
また声が漏れる。
だから俺は形は変わっても夏希はそこにいると、無意識にそう思ってしまったのだろうか。
「ねぇ」
はっと意識が明瞭に戻る。どうしようもない隙間の先、夏希の目からは後を追うように何度も涙が伝っている。
なに?そう聞きたくて声にならなかった。まるで無視したかのように間が開く。
「ねぇ、なんで」
それでも夏希は続ける。
今日が登校できる最後の日になると、明日からはもう家ではなく病院にいることになるのだと、そう教えてくれた夏希が。感情を押し殺して気丈にそう伝えようとした夏希が。笑顔なのか、泣いているのか、絶望しているのか、それともこの景色に感嘆しているのか。持ち合わせる全ての感情を無理やりかきまぜたような顔をした夏希が、また口を開く。
「ねぇ、なんで、三桜君が泣いてるの?」
自分も泣いているというのに、夏希はそんなことを言う。風が頬を伝っていた夏希の涙を横向きに煽った。そして同じように晴斗の頬も。
彼女が小さく微笑む。迷走を続けた感情が無理やり終着点を見つけようとしたかのように。晴斗も返すように頬を緩めようとする。上手くできているのか、まるで自信はないけれど。
鱗雲から抜けた陽光がすぱっと、空気を切り裂くように差し込む。その眩しさが瞬間的に視界を遮る。だがその光にはもう照りつけるような熱は無かった。




