雲
電話は祐介が切った。これでいいのだと、朦朧とする意識の中でそう思う。彼女に弱いところなど見せたくなかった。いつものように大人ぶった自分で、最後までいたかった。彼女がそのことに気付いているのだとしても。
天井と目の小さな隙間に、ふと白衣を着た久慈の姿が映る。普段はあまり感じないが、やはり彼も医者なのだ。計器に目をやり、カルテを読む姿にそう思う。あぁ、そういえば彼女と、錦見夏希と会うことになったのはこの人のせいだった。千切れかけた頭で思い出す。カルテから顔を上げたらしい久慈が、祐介を見つめた。
会って欲しい人がいるんだと、久慈に言われた時、正直あまり乗り気ではなかった。赤の他人と関わるなんて面倒くさいし、絶望している他人に構う余裕など自分には無い。それなのに了承したのはなぜだっただろうか。もう思い出せない。でもその決断は正解そのものだった。研究室以外に自分を必要としてくれる人がいて、あの中庭で楽しみに待っていてくれる。たったそれだけのことが信じられないほどの幸福に思えた。気付けば彼女は痛みすら吐き出すことのできる存在になり、そして最後に電話をかける相手になった。彼女がいなかったら、最後の瞬間はもっとつらいものだったのだろうと祐介は知っている。
「祐介君」
目が閉じていた。これまでで一番思い瞼を押し上げ、視界を取り戻す。久慈の顔がよく見えた。
「祐介君……」
震えた声を詰まらせ、久慈は口を閉じる。やっぱり彼は医者には見えない。またそんな風に思う。
「久慈先生、ありがとう」
声になったのかは分からない。ただ祐介に病名を告げる久慈の姿が、診察と全く関係無い話で盛り上がった瞬間が、そして錦見夏希のいる部屋へと案内する背中が、走馬灯のように蘇った。
「あぁ、祐介君、こちらこそありがとうだ」
必死に顔を拭いながら、久慈はもう泣いている。
死ぬのだ。もうほとんど回らなくなった頭をそんな思いが支配する。思ったよりもあっけなく、早く、そして空虚に。
隠し切れない悔しさと、それ以上の絶望と。そんな感情が胸に溜まってばかりだ。必死になって何かを残そうとした。自分の名前を刻めば、どこかで誰かが覚えていてくれる。そう信じた先にあったのは、空白と現実、それだけだった。もうどうすることもできないというのに、やりきれなさがすっと忍び寄ってくるのが分かった。
「祐介?祐介!」
耳に直接音を注ぎ込んだかのような声に、また祐介は目を開ける。母だ。何だろうか。
「
声が出ない。息だけでもう精一杯だ。
「祐介、電話聞いてね」
そう言った後、何かが耳に優しく触れた。スマホだろうか。
「祐介」
はっとする。いろいろな声が、次々に自分の名前を呼んでいる。
研究室の人達だった。
「祐介のおかげで……
もうほとんど聞こえない。それでもどうにか意識を保ち、耳に集中する。
「ありがとうな祐介、忘れないぞ」
あぁ、すうっとその言葉が胸に落ちてくる。研究室の誰か、それすらももう判別できない。それでもいいと思えた。
もしかしたら自分はこれを望んでいたのかもしれないと気付く。自分は実績も成果も何も残せなかった。それでもちょっとは他人の役には立って、そうして彼らの記憶の中にいる。その人たちが何かの折に思い出してくれる。それでいいのだ。今更そんなことに気付いた。自分はもう名を刻めていたのだ。
ざあっと音を立てて、暖かい水が胸に流れ込んできた。顔を何かが伝って、むず痒い。目を横へ走らせると、夏空に入道雲が見えた。
まだ続く電話へと再び意識を向け、祐介はゆっくりと目を閉じた。




