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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
第七章 錦見夏希
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軋み

 この前とはまるで違う気持ちを抱いて夏希はバスのステップを踏んだ。向坂高校前、市バスと宮城交通のバス、二つの立て札が並んだバス停で。 


 丘陵地の中腹に立つ高校の前をバスは登っていく。ガードレールに沿うように曲がると、すぐに校舎は見えなくなった。何を考えればいいのか、そのことすら不鮮明なまま、夏希は頭を窓ガラスに預けた。道路に描かれた白線は目にもとまらぬ速さで流れていく。




少し外出てみない?そう言われたのは彼が中庭に来てすぐだった。その顔に映る悲壮感はこの前よりも濃く、疲れが混じっていた。辛うじて体裁だけは保とうとするかのように整えられた身だしなみが、変に浮いている。まるであどけない子供にオーダーメイドのスーツを着せているかのようだ。それでも彼は、この前よりも普段通りに見える。声には張りがあるし、笑顔だって幾分か自然だ。それが彼が必死に取り繕った張子だったしても。



病院の自動ドアを抜ける。鼓膜を揺らすような蝉の声、強い日差し。無造作に木々が伸びきった通りは、総合病院には不相応に見える。車通りの多い道路の向こうには錆びた緑色の金網フェンスが延び、必死に森を抑え込んでいる。人間が地球から消えたらこんな風になるのだろうか、なぜだかそんなことを思う。


そんな夏希の前を雪原は進んでいく。数十メートルほど先、病院の横、林と広場と公園と、その中間のような場所へ。木製の看板を抜け、フェンスの横を通り、中へと入っていく彼の背を追って、夏希も進む。

「ここに一緒に来たかったんだ」

独りごとのように、そう言って彼が振り向く。僅かに伸びた髪がふわっと揺れて、足元がサクッと軽く鳴る。彼の目が夏希を捉え、それから優しく移ろう。夏希もその視線を追うように彼から瞳を外す。


思わず息を飲んだ。


そこには、日差しを受けて痛いほどに輝く景色が広がっていた。そしてその真ん中に鮮やかな緑を身に纏い、黄金の日差しを浴びる雪原の姿がある。彼すらもその景色の一部かのように。再び彼と視線が合う。美しいほどに痛々しく彼は微笑む。その笑顔だけが景色の中で藍色に見える。完成した絵画に一滴垂らしてしまった絵の具の様に。




病院の中庭とは違い、自然な草木に覆われた地面の上を夏希は雪原と並んで進んだ。ナツメグサに白色を混ぜられた足元は木々よりも薄い緑色。木々の隙間、影の下を二つの影が通る。どこかでトンビが鳴いて、風が吹く。一刻遅れて、木々がざわめいた。



(つる)で作られたような繭の中、据えられたベンチに二人は座った。木でできたその椅子は、編まれた影の中でポツンと誰かを待っていた。夏希の隣に掛けた雪原の横顔をそっと夏希は伺った。椅子の代わりに網目のある影を受けた彼は、すっとどこかを見つめたまま何も言わない。木々よりもずっと遠いところを見る彼の目に何が映るのか、夏希には分からぬまま風と時間だけが過ぎていった。



「何もできなかった」

そんな声が不意に耳に入ったのは、ずっと後の事だった。どれだけ時間が経ったのかも分からないほど後。夏希はゆっくりと彼に目線を戻す。それでも彼の視線は空の方へと向けられたままだった。

「残りの人生を有意義に過ごそうとか、せっかくなら賢い頭を使おうとか、何か生きた証を残したいだとか。そんな調子の良いこと言ってたのに、結局俺は何にもできなかった。何の成果も、結果も俺の手には無いんだ」

彼のまつ毛が何度も動く。気付けば影の位置は変わり、正面から彼に、夏希に差し込んでいる。

「自分は特別なんだって思って、周りとは違うんだって信じて、そうやって自分に意味を持たそうとしてきただけだったんだ。今ならそう分かる。でも俺は特別でも何でもなかった。ただ珍しい病気を持って、自分は賢いと思い込んだ大学生に過ぎなかった。俺が必死になった時間は、何も形にならないまま、もうすぐ完全に消える」

瞼が上下し、彼の声がかすかに掠れる。

「でもきっと俺がいなくなっても研究は変わらず進む。俺のいない世界が周る。誰も俺のことを覚えていない世界が。俺が居たことなんて、思い出しもしない世界が。」

彼の声が歪む。鼻をすすり、それでも彼は続ける。

「たまらなく怖いんだ。自分が消えることも、どこにもいなくなることも、何もかも忘れることも。みんなが俺を忘れることも」

震えて鼻声へと変わったその声で彼は話す。横顔に伝った涙が日差しに触れて光を弾けさせた。その横顔がゆっくりと夏希の方へと向けられる。彼はもう泣いている。それでもどうしようもないかのように、彼はまた笑う。嗚咽が上がる。堰を切ったかのように涙がとめどなく、顔を染める。夏希の横、日差しの隙間。彼は子供の様に泣きじゃくっている。

「もう分かんないんだ、何もかも」

ぐちゃぐちゃになりながら、何とかそう言う彼の顔が歪む。また嗚咽が漏れ、二人の体の間、薄い色の木目にぽつぽつとシミが広がった。それが自分のものなのか、彼のものなのか、もう夏希にはまるで分からない。





青々と広がる緑の中、そのどれよりも細々しい身体で、二人は身を震わせた。






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