直視
昼過ぎに病院に着き、いつもの中庭で雪原を待つ。普段は大学の研究室に籠りっきりだという彼は、中庭で会うことにすら喜んでくれるのだ。古い病棟の中に、ぽっかりと開いたようなこの中庭は今では夏希にとってお気に入りの場所だ。診察の帰りに本を読んだり、うとうとしたり、何でもできた。夏希以外の利用者などほとんどおらず、たまにいるのは入院中だというおばあちゃんぐらい。驚くほどに喧騒から離れ、まるで世界から隔離された箱のような、そんな世界だった。
サクサクと背の低い芝生の擦れる音が響いて、小説から顔を上げた。
その時視界に入った彼の顔に、痛みのような何かを夏希は覚えた。どことなく彼がいつもと違うことを直感のように悟り、すぐにそれが全てだと気付く。話してもいないのに彼の中に広がる分厚い雲が見える。夏希に向けられた瞳が、もっと遠くに向けられているのだと風が教える。彼の中の何かが不鮮明に浮かび上がり、それなのにまるで分からない。どうしようもなくひりつく胸だけが全てを悟っているようだった。
なぜだか熱を帯びる体の芯。日差しが染みたかのように、かすれる目。それでも夏希は無理やり口角を上げる。
「こんにちわ」
上手く笑えている自信なんてどこにもない。さっきまで好ましかったはずの日差しは、不要な舞台演出に変わり、それなのに一層強く照っていた。
「雪原さん?」
「え?あ、あぁ」
病院内のカフェに移ってもなお、彼の中の蔭りは消えなかった。会話はすぐに雪原側で止まり、キャッチボールじゃなくてシュート練習をしているかのようだ。明日には今日の会話の内容を彼は一つも覚えてはいないのだろう。もしかしたら夏希と会ったことすらも。いつもよりも静かにストローを咥えるその顔に、なぜだかチクッと心が痛んだ。
何も聞こえていない彼に学校の話をして、この前観た彼おすすめの映画の話をして、それから最近読んだ本について話す。会話が途切れるのが怖くて、夏希は矢継ぎ早に口を開いた。怖い、彼が重々しく口を開くのが。怖い、その痛みを覗くことが。もう自分でも何を話しているのか分からないほどに、夏希はしゃべっている。相槌と痛々しい笑みと、焦点の狂った目。目の前の雪原が夏希に見せるのはたったそれだけだった。
どれだけ時間が経ったのだろうか。本当は2時間34分だと知っているけれど。カフェの柱に掛けられた教室みたいな時計をずっと睨んでいたから。せっかく彼といるのに、速く進めと必死で願っていたから。
だからだろう、きっと。
「そろそろ出ようか」
雪原が落ち着いた声でそう言った時、夏希が少しうれしさを覚えたのは。
透明な自動ドアを潜ると、もわっとした熱気が体を包んだ。エアコンを浴び続けて冷え切った体をじんわりと溶かしていくかのように。日差しは傾き、病院に長い影を落としている。
「今日はごめんね」
夏希の後ろ、不意に雪原が急にそんなことを言う。振り返れないまま、夏希は固まる。
「分かっているんだ。せっかく来てくれた夏希さんにこんな態度をとるべきじゃないって」
自分の目が異様に大きく開かれているのが分かる。唇はかすかに震えている。
「言うべきなのか、自分でも分からなくて、心の整理もついていなくて。余裕がなかった」
怖い。先刻まで覚えていたそんな感覚が再び浮き上がってくる。
「俺は後、二ヵ月ぐらいしかもたないらしい」
その言葉に、夏希の体は勢いよく振り返る。目がガラス戸と夕日の合間に立つ彼を捉える。美しいほどに彼は輝く。
「最近は時間の感覚がどんどんずれて、なかなか治らないんだ。一日中ぼうっとしたり、そうかと思えば急に一日中研究に没頭してみたり。もうどこまでが自分なのかも分からない」
あぁ、と夏希は気付く。彼は何も言わなかったなんじゃない、言えなかったんだと。口を開けば弱音が、どうしようもない絶望感が溢れると分かっていたから。
決壊したかの様に感情を吐露する雪原の姿は、強い西日の中でぼやける。道行く人が彼に視線を向け、そのことに夏希は憤りを覚え、怒鳴りたくなる。何も知らないくせに、そんな風に見るなと。そんなことを彼はきっと望んではいないけれど。
結局、どうすればいいのか。その術を知らない夏希は、立ち尽くすしかない。
気付けば身体はエアコンの冷気を無くし、その温度を上げ続けていた。




