上り坂
起きる前から浮足立っている日がある。よく寝ても覚めても、何て言うそれを最近の夏希は身をもって実感していた。まるであらかじめエンジンをかけておいた自動車かのように、目覚めた時にはもう体の準備が整っているのだ。
そんな日には、二度寝をする気にもならない。すぐに足を振って、ベッドから踏み出す。そうして昨日畳んでおいた服に着替えた。思えば普段は服の用意などしないのだ。小学生だったころの校外学習の日、朝からここまで準備万端なのはそれ以来な気がする。
「行ってらっしゃい」
背中でそんな声を受けながら夏希は家を出る。最近一人で家を出ることが増えた。母も前よりは心配していないのだろう。車ではなく、バスに乗っていく。そんな人間らしい生活が僅かに戻って来た、そんな気がする。ビル風を受けてドラマのように髪が強くなびいた。
じんわりと汗が滲んだ頃になって、ようやく青いバスが停まり扉が開いた。乗客は夏希だけ。あっという間に汗が凍ってしまいそうなほどにエアコンの効いた車内。このバスは間違いなく赤字に違いない、偉そうにそんなことを思った。
運転手と夏希といやに冷えた空気。たったそれだけを乗せたバスはゆっくりと平日のお昼時を進んでいく。木々に囲まれた大通りを、その影の間隙を縫いながら。気が付けば、夏希は窓の外に目を向けている。
手にした文庫本に薄くかかる日差し。塊になって空に浮かぶ真っ白な雲。イヤホンから聞こえる明るいポップ。ありきたりな夏の日の演出みたいだ。
もうすぐだ。もうすぐ彼に会える。映画の上映前の宣伝映像を見ている時のような、そんな高揚感に体が包まれている。流れる景色も、ドラマの振り返りのようにあっという間に過ぎ去っていく。
わずかに火照った体に、夏希は鼓動が速まっていることに気付いたのは、そんな風にあれこれ考えていたからだ。でもそれはきっと”夏のせい”なのだろう。そんなことを思ってから、急に気恥ずかしくなって、自分に苦笑してしまう。
彼と会う前はまるで自分がドラマの主人公かのような、そんな気分になる。不思議な何かが彼にはあるのだと、夏希は思う。
もうすぐだ。
バスはそのエンジンには軽すぎる乗客だけを乗せて、上り坂へと入った。




