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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
第六章 町田莉子
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一年記念

 東北の良いところ、それは通常授業が始まってから桜を楽しめることだ、と莉子は思っている。卒業式とか入学式とか、イベントに合わせて咲くのもきれいなのだが、その桜はやっぱり慌ただしい。移ろう季節に歩調を合わせるかのようにすぐに散ってしまうような気がするのだ。

 新学期の授業が始まって、休み時間にふっと窓の外に映る桜が一番いい。それが自然に木であればあるほど。6時間目の授業を終えた午後。職員室横の窓から見える、夕日を受けて揺れるしだれ桜に莉子は目を細めた。





 そういえば自分が小学生だったころ、年が明けると先生たちは毎年のように同じことを言っていた。1月は、2月は、3月はあっという間に過ぎると。その話を聞いた私はきっと、神妙な顔をして頭の中で内容を唱えていたのだろう。難しい言葉は頭で復唱して、噛み砕こうとする子供だったから。でもきっとどれだけ繰り返しても、先生が壇上で語る言葉の意味を理解できなかったはずだ。

 世の中には経験しなけれな決して理解できないことがある。大人になって、いや歳を取って、そのことを知った。勉強とか人間関係とか、時の進むスピードだとか。子供のころから何度も口酸っぱく言われていた「大切なこと」は全く疑いようも無く正しかった。それなのに私はそのどれもを理解していなかった。ちょっとした進学校に入学したのに、テスト前には必ず友人と「勉強してないわー」と言い合い、そのことを自慢した。大学では何もせずに遊んでばかりだった。そして社会人になってからだって。

 そのどれもが他人が教えてくれていたはずの「大切なこと」で、私はそのことを知っていたはずなのに。全て遅きに失してから、ようやくを理解する。あぁ、知っていたのに、そんな言葉が口を突く。勉強していなかった代償は学力として数値に現われた。思い描いていた大学は遥か遠く、手が届く大学はほとんどなかった。そうして進んだ大学の四年間は砂上の楼閣のように手の中で消えた。卒業式が終わって、独りになって、その時になってようやく四年間で何も手にしなかったことに気付いた。辛うじて取り切った教員免許を除けば、なにも頭には無く、薄い遊びの記憶がかすかに残っているだけだった。違う、一つだけ私は掴みかけていたものがあったはずだ。それなのに私はそれを手放してしまった。先生たちが、親が、歌が、映画が、馬鹿みたいに繰り返していることの大切さなんてもう理解していたはずなのに、それなのに私はまた全てが過ぎ去ってから気付いたのだ。私は《《またやったのだ》》と。


それから一年近くが過ぎたなんて、信じられなかった。知らないうちに私の人生を誰かが代行していたのかと思うほどだ。次、私は何を知ることになるのだろうか、全てが手遅れになった後に。





「「ピココーン!!」」

電子音で意識が現実へと回帰した。手を職員室の巨大な印刷機に着き、ぼうっとしていたようだ。そうだ明日の授業で使う古典のプリントを印刷していたのだ、排出部に溜まった分厚い紙の束を目にして思い出す。これをクラスごとに配布物用ロッカーに入れて、それから今日回収したプリントの集計もして、その後………

山積みの仕事を思い出すと、途端にどっと疲れが流れ込んできた。また今日も仕事ばかりだ。仕事終わりに飲みに行くとか、野球を観に行くだとか、ちょっと高いレストランに入るだとか。そういう昔想像していた生活とはまるで違った。子供のころ憧れた大人の余裕も、高校の頃に羨ましかった自由さも、大学生には無かった財布の強さも、何一つ手に入れてはいなかった。山積した仕事をどうにかこなして、帰ったら倒れ込むように寝て、次の日は重い体を引きずるように起きる。始業よりも早く出勤して、残業して帰る。誰からも労われず、残業代も出ないのに。

それでもお金は学生の頃よりもずっとあるはずだ。それなのにほとんど使ってはいない。朝、コンビニで昼用のパンを買って、夜スーパーで安くなった総菜を手に取るぐらい。そのくせ今口座にいくらあるのかは知らない。別に溜めたくて溜まっているわけでもなかった。大学生のころなら生活をちょっときつくしてでも欲しいものがあった。それなのに今は何を買っていいのかも分からない。時々漠然とネットショッピングのサイトをスマホで開いて、大学生のころに好きだったブランドの商品を眺めたりする。それなのに魅力的に映るものはなかった。どれも退屈で、つまらなくて、そしてなにより今の私には眩しすぎた。結局カートにすら何も入れぬまま、スマホの画面を落とすのだった

そうして暗くなった画面に映る自分のひどく貧相な顔に、絶望するのだ。お決まりの展開のように毎回。





ピ、ピ、ピ、

 電子音がまた意識が明後日の方向を向ていたことを自覚させた。疲れているのだ、ようやく気付く。何を考えても、頭にできた深淵に引きずり込まれるようだった。

 今日はもう帰ろう。紙の取り忘れを伝えるアラームを消し、プリントの束を手にしながら莉子はそう決める。どうせ仕事をいつやろうが変わらないのだから。残業代も出ないし、無数の仕事が終わることも無い。そういう職業についているのだから。そんな生活を後40年、少なくとも明日は続けるのだから。






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