再春
冬はもう終わりだと天気予報で気付く。天気の後に気象予報士が言わなかったのだ、「地面の凍結に気を付けて」と。そのまま宮城のローカル番組は終わり、左上の数字が8:00になったのと同時に全国ニュースに切り替わった。
「よし」
準備は完了。少しうきうきとした気持ちでテレビを消し、鍵を手に取った。冬が終わる、そう思いながら靴を履き、《《一人で住む》》少し広い家を出た。
濃い緑のSUVは就職時に購入した莉子のお気に入りだった。SUVといっても軽自動車だから維持費はそこまで高くないし、税制の優遇もある。あらゆる意味でこの車は良い相棒だ。
夜を超えて冷え切った相棒に、エンジンを点け、息を吹き込む。わずかに車体が揺れ、遅れて動き出した車内空調が冷たい風を勢いよく吐いた。
「行こうか」
そう声をかけ、助手席に顔を向ける。空白の空間の向こうに、出てきたばかりの自分のアパートが見えた。シートの上にはちょこんと莉子の白いトートバッグが乗っているだけ。音を立てて先刻の明るさが萎んでいくのが分かる。
まただ、そう思いながら溜息を吐いた。いつまで私は彼の影を追うのだろうか。忘れられないままなのだろうか。空のシートに向かってシャボン玉のように次々と感情が浮かんでは消える。朝の清々しさは、悲しい夢の後味のような渇きに変った。
「行こう」
今度は自分に向けて声をかけ、莉子はハンドルを強く握った。
駐車場から車を出し、住宅街をゆっくりと駆ける。小学生も多いこの付近の運転はいつも緊張した。もっともそれも、国道に出れば終わりだ。今日も無事通り抜けた、今度は安堵の溜め息を吐いて、交差点に車を停めた。信号は赤になったばかりでまだしばらくかかりそうだ。莉子は正面から視線を外すと、車の左側に顔を向けた。勿論、助手席は見ないようにしながら。
国道とこの小さな道との交差点、そこにある大きな家を見るのが莉子の小さな楽しみだった。瓦を積んだ黒い屋根、背の低い垣根、その向こうの手入れの行き届いた庭。まるでおとぎ話の世界から飛び出してきたかのような、そんな景色がそこにはある。初夏にはスズランが雪のように庭を飾り、夏には周囲の木々が青々と庭を覆う。それが秋には色を変え、地を染める。冬には稀な雪が松の冬囲いに映えた。そして春は、歩道の奥、あの小さな梅が紅を覗かせるのだ。あんな小さな枝のどこにそんな力があったのかと驚かされるほど鮮血に。
きっとまもなく咲くのだろう。もう二月も、冬も終わるのだから
冬が終わる、教員にとってそれは一年の終わりが近づいていることを意味した。一年生は先輩に変わり、三年生は成人として学校を旅立つ。そんな時期が迫っている。莉子にとっても配置換えや移動、そういう社会人らしいイベントの時期になる。
いっそ転任になれば、大手を振ってあの部屋を出て行けるのに、そんな思いが心をかすめる。でもそうしたら、今年はスズランを見られない。それは嫌だな、本心から目を背けるかのように心がそんなことを言った。
青になった信号を抜け、国道を示す青い看板の下、莉子はハンドルを左に切った。
車が山に入る。山とは言っても、丘陵地に近いこの地をぐんぐんと登っていく。エンジンの動きが感じられ気持ちがいい。少し晴れた気持ちでにつられるように、莉子はラジオの音量を上げた。1260FMそう書かれた無機質な画面に白色のボリュームマークが現れて、そうして消えた。鱗雲の下、坂の上、ラジオDJの声に包まれて莉子は進む。
はっと意識がラジオに向いたのは、ちょうど信号に引っかかって、ハンドルから手を離した時だった。
「……さん、リクエストありがとうございます。それではクローバー・ラインで、”反動”」
そう言って声が消える。一瞬の沈黙、そして音源が流れだす。ギターにドラム。その音に思わずまた、夏希は助手席の方を見てしまう。何もないその空間を。
「好きな歌手とかいるの?」
そう聞いたのは莉子だっただろうか。それとも彼が先に莉子に聞いたのだったか。かつては明瞭だったはずの記憶が錆びついたかのように思い出せなかった。他にも一体どれだけのことを私は忘れてしまったのだろうか、不意に波紋のように哀しみが広がった。
まぁなんでもいい。一番大切な彼が言ったことは覚えているのだから。
「クローバー・ラインっていうバンドが好きなんだよね。町田さん知ってる?」
聞き返しながら、彼が目線を下げて、それが莉子のそれと交わって
「「プパーーン!!!」」
耳をつんざくような音がして意識が瞬間的に戻った。
「やばっ」
信号はもう青い。慌ててハンドルに手をかけ直し、そのままアクセルも踏み込む。後方の車への申し訳ない気持ちを胸に、莉子は車の運転に集中することにする。
思い出した時には、ラジオは既にCMに入っていた。




