勝手
結局ベッドに入ったのは日付が変わってからだった。運動会が終わった日の夜のような、収まりきらない早打ちの鼓動と僅かな寂しさと、そして小さな焦燥。そんな心を整理できないまま、目を瞑る。もし本当に運動会の後だったなら、この気持ちは体の疲れと一緒に睡眠で流れてくれたのだろうか。
暗い天井、カーテンの隙間からこぼれるマンションの廊下の明かり、背の高い本だな。眠れずに開けた目にはあれこれが飛び込んできた。そのすべてがちゃんと脳には送られているはずなのに、何も感じない。情報が頭よりもずっと手前、脊髄とか首とか、神経とか、そういったところで行き詰っている。脳は今持っているものだけでもういっぱいで、これ以上の何かを受け付けられないのだ。そう気付き、晴斗はまた無理やり瞼を下ろす。
だが視界が暗くなると、その代替とばかりに夏希に起きた《《こと》》がありありと思い出された。表情も感情も、その時の店内の音までもが、鮮明で詳細に。自分のどこにこんな記憶力があったのかと驚くほどに。
なんとなく長いな、最初に抱いた違和感はその程度のものだった。どれくらいだったろうか、夏希が黙ってから30分くらいだろうか。ハンバーガーはとうになくなり、ポテトも晴斗のお盆の上からは消えていた。ストロー片手に時間をかけてSNSを眺めて、それに飽きた頃だった。スマホを消して、夏希を見る。静止画の如く、さっきと変わらぬまま彼女は顎に手を置いていた。その真剣な目には「まだ考え中」と記されている。そんなに考えなくても。思わず晴斗は苦笑してしまう。
「適当に言っただけなんだよなぁ」
気付きはしないだろうと知っていたが、晴斗は小さく夏希の方へ声を発する。勿論その声に夏希は反応せず、晴斗の声は店内のざわめきとBGMの合間に吸い込まれていく。
「まだかかりそうだな」
今度は独り言。晴斗はスマホをリュックの小さいポケットに入れ、代わりに手持ち用の参考書を取り出した。蛍光緑の表紙、ちょうど夏希の飲んでいたメロンソーダの色。その参考書を開き、挟みっぱなしにしていたボールペンを左手の指で回す。俺も集中しよう、そう思いながらペンの頭を押し込んだ。
自分でもよく集中していたとは思う。店内の騒々しさも、程よいBGMも手元にあったアイスティーも、そのすべてが心地よかった。勉強中に始めた掃除のような清々しさが気持ちよかった。ずいぶん勉強は捗り、その間にアイスティーはなくなり、ふやけた紙カップの中身は溶けた氷たちへと変わっていた。
わずかな疲れと眠気を覚えたころになって、ようやく晴斗は顔を参考書から上げ、ペンを表紙に挟み直した。そうして空いた手で晴斗はスマホを取る。そろそろ帰らないとな、そう考えながら画面の時間を見て、驚愕した。慌てて夏希の方を見て、続けざまに驚く。彼女はさっき見た時と何も変わらぬままそこにいた。
「うっそだろ」
スマホには母親からの不在着信が何件もあった。そりゃあそうだ、学校に行ったはずの息子が11時になっても帰ってきていないのだから。多少動転しながらも、晴斗はすぐに母親に夏希とご飯を食べていたこと、すぐ帰ることを文面で送った。間髪入れずに付いた既読が母の心配を映し出しているかのようで、わずかに申し訳なさを覚えた。
「早くしなさい」
という返信を横目に、そそくさと勉強道具をリュックに放り込む。これで帰れる、すくなくとも自分は。
一方の夏希はどこ吹く風、時間も晴斗の焦燥もまるで関知せず、先刻と同じように集中を保っていた。彼女の前の包みのまま冷めきったバーガーたちが、彼女が一度もその状態から解けていないことを示す。
「夏希?」
躊躇いからか、自分でも聞き取られないほど弱弱しい声が出る。彼女を覚まさせたくない、心のどこかがそう強く拒絶する。他人の嫌いなことなんてしたくない。野菜を食べまいと頑なに口を閉じる子供のようにそう思う。早く帰らなければいけない、そう分かっているのに、八方美人で臆病な自分が顔を出す。そんなこと言っている場合じゃないのに。
そうやって心の中で変な葛藤をして、結局晴斗は夏希を集中から引き上げた。声では気付かなかった彼女の肩を掴んで。その時の夏希のコマ移りのような感情の波が、はっきりと晴斗の胸を抉った。
眠れないまま、晴斗の目は再び開かれる。強烈な衝撃を受けて、覚醒している。ちょうどエナジードリンクを飲んだ時に近い感覚だった。
ファストフードでの夏希の感情の動きが、ゆっくりと彼女の言葉と繋がっていく。彼女はゆっくりと自身の病気のことを晴斗に話した。帰り道いっぱいを使って。その病気が死に至るもので、とても稀で、それで絶望したのだということ。でもある大学生のおかげで頑張ろうと思えたこと。極端な集中の継続は病気の症状の一つだということ。そのすべてが彼女の声でつぶさに再生される。
蔭りと笑顔と、晴斗には読めない感情。それはきっと死だとか寿命だとか、そういう経験の利かない感覚なのだろう。晴斗にとってそれらは遥か先のイベントに過ぎず、知識止まりだ。どんなに近くても、それらを想うのは数十年は先で、差し当たって別の問題の方が重要だった。
それでも、夏希が死ぬ。それはやけに現実的な響きをもって晴斗の中を駆けた。人は死ぬという知識に、顔と性格が乗ったようだった。漠然とした恐怖と無力感が掌に溢れて、でもそれは茫漠としていて実体を掴めないままだ。
晴斗が自分の胸中で明確に手にできたのは全く別の感情だけ。醜くて、愚かで、恥ずかしい思い。あまりにも身勝手な情緒。
嫉妬だった。
気付けば夏希が嬉々として話すその《《大学生》》に強い嫉妬を覚えていた。晴斗は想像すらできない感情を夏希と共有し、晴斗は知り得ない表情を見るその姿に。そして言葉端から伝わるその《《男子》》大学生を慕う夏希の様子が一層晴斗の感情を掻き立てていた。身悶えするような劣等感に、晴斗はベッドの中で髪をぐしゃぐしゃといじる。
夏希は、錦見夏希は死ぬのだ。それなのに彼女は気丈に振舞い、そのことと向き合おうとしている。たとえそれが強がりなのだとしても。
だというのに、自分は彼女の死を分からないことだと言い切り、あろうことか嫉妬すら覚えている。自分の感情にしか興味がなく、他人のことなどどうでもいい。そんな自分の本質を突き付けられているかのようだった。顧みた自分の姿に強い嫌悪感を覚え、吐き気がした。そしてその性根を隠さんとするが如く込み上げる、上っ面の愛想の良さに心底の軽蔑を覚えた。
眠絡み合った感情に喉を薄く掴まれているように思え、苛立ち、掛け布団を蹴り上げた。瞼を閉じても、開けても全てが感情を逆撫でた。むしゃくしゃとした気持ちに整理がつかないまま、再び髪を乱暴にいじる。
今日はやっぱり眠れそうにない、頭と首の間、やたらと冷静なその部分でそう思った。




