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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
第五章 三桜晴斗
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16/50

羨余

体育館の側面、金属製の重厚な扉を滑らせると、そこは冷えた暗闇が広がっていた。西の空にはわずかに藍色が残ってはいたが、帰宅する生徒たちの顔を見分けられはしない。暗闇から不意に風が吹き込み、晴斗は慌てて腕にかけていたジャージを羽織った。

 時計はもう7時を周っていた。学校が閉じるのは7時半だから、それまでに出ないと。急ぎながら室内用のシューズを脱ぎ、外靴に足を通した。

 普段は(つち)のコートで練習をしているハンドボール部が体育館を使えるのは、木曜日と日曜日の二日だけだった。この二日の練習に熱が入るのは言うまでも無く、終わるのはいつも閉門時間ギリギリだ。薄暗い空の中、晴斗は荷物を置いたままの校舎へと駆けだす。



公立校だからか、建てられたのが昔だからか、そもそも敷地が足りないのか、向坂高校の部室は驚くほど小さかった。当然そこを使うのは一番上の学年になり、三年生が引退した今は二年生だ。一年生は校内に荷物を置くことになる。もっとも校内の荷物置き場には自販機が併設されていることもあって、そこまでの不満はないのだが。ただ閉門時間ギリギリの時は話が違う。一度校舎に入り、着替えて出てくるのはひどく面倒だ。大慌てでジャージを脱ぎ捨て、私服に袖を通す。

「もうすぐ閉門時間だぞー!!」

どこからか体育教師の声が響く廊下に、晴斗は飛び出した。



深い青のクロスバイクに跨るとゆっくりと漕ぎ出し、駐輪所を出た。ハンドルの動きに合わせて充電式のライトが激しく揺れる。ほとんど明かりの残っていない校舎の横を抜け、坂に入る。重心が前に傾き、勢いがつく。途端に冷たい空気が服を膨らませ、晴斗の産毛を立てた。


短い坂を抜けると晴斗はゆっくりと勢いを殺しながら、自転車から飛び降りると、目の前の緑色の扉に手をかけた。金網のようなフェンスを押すと、近所迷惑間違いなしな高音が静寂を揺らした。夜7時過ぎ、小学校の敷地という、まるで犯罪のような帰り道を進む。自転車利用の生徒は小学校の敷地を通ることが義務付けられているとはいえ、晴斗はいまだに真っ暗な校庭を進む感覚に慣れなかった。自然と早歩きになりながら、竹藪の合間を抜ける。薄汚れた電灯の影が、晴斗と竹に伸びた。

その影の先、東側の校門の向こうに誰かが立っている。スマホのライトで照らされた顔だけが暗闇にぼんやりと浮かび上がって見えた。お化けのような白っぽく不気味な明かり、それなのに晴斗の口角は自然と上を向く。


「ごめん!遅くなった」

声の反響を感じながら、晴斗はお化けの光に声をかけた。わっ!という小さな声の後、勢いよく顔が上がる。

「何だ、三桜かぁ。びっくりしたなぁ」

もう、と冗談のように唇を尖らせながら、夏希はスマホをポケットへしまう。

「待った?」

彼女を真似るように、ふざけて聞く

「すっっごい、待った」

「ほんと?」

「ほんと!感謝してよね!」

笑う彼女と目が合う。その刹那、わずかに彼女の目が伏す。見てはいけない《《もの》》を見てしまったかのように。

「よし、帰ろう!」

まるでそれを誤魔化そうとするかのように彼女は声を出し、そのまま坂を下りはじめた。ぱたぱたと足音を残して、彼女は坂をゆっくりと走っていく。それでも晴斗の足は動かない。あの一瞬の表情がとげのように抜けなかった。じんわりと得体のしれない不安が、冷たく胸に広がっていくのを晴斗は感じる。


「はやくしないと、置いてくぞー!」

坂の中腹から夏希の声が聞えた。

「はいはい!」

わざと呆れたような声を返し、晴斗は右手でつかんでいた自転車に両手をかける。彼女は歩き、晴斗は自転車。追い付くのはすぐだ。

 だが金属のフレームに跨る直前、晴斗は思わず顔を上げる。夏希がどこまで坂を下ったのかを確認するために。分かっている、そんなこと自転車に乗ってからでもできると。走り出してからでも十分だと。それなのに、今すぐ確認しないといけない、そんな義務感に駆られた。今顔を上げないと、そこに彼女がいなくなっているんじゃないか、そんな馬鹿げた感情が胸を塞ぐ。

 上げた視界の先、そこに彼女はちゃんといた。左には公園があって、その向こうに仙台の中心部が輝く。右には道路に隣接する家々が灰色に並ぶ。そしてこの街を丸ごと包むかのように、海が広がっているのだ。今は暗くて何も見えないけれど。そのすべての真ん中に夏希はちゃんといた。黒っぽい影になって、晴斗に手を振っている。そこは街灯の狭間で、晴斗からは顔はおろか姿もはっきりとは見えなかったけれど。

 

 ふいにその影が手を下ろし、くるっと向きを変えた。そうして

「置いてくぞー!」

また下の方へ歩を進め始めた。どんどん彼女の影が濃くなっていく。思わず硬直ような恐怖が体を貫いた。夏希が暗闇に飲まれていくように思え、慌てて晴斗は自転車に跨った。急いでペダルに足をかけ、強く漕ぎ出す。彼女の影を必死で追いかけるかのように。







通りの街灯が一つ消えていたことに気付いたのは彼女に追い付く直前だった。









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