星空
久しぶりにカーテンを開けると鬱憤のように積もっていた埃が舞い上がり、思わず夏希は顔をしかめた。カーテンだけじゃない。机にも本棚にもハンガーラックにも薄くはない埃の層ができている。それでも、掃除は明日すればいい、今日の夏希にはそう思える。
マンションの角部屋に位置する家のおかげで、夏希の部屋にも窓があった。久しぶりに見た眺望は前と何も変わっていない。それは仙台の副都心として開発が進み、日夜風景の変わるこの街でとても稀有なことだった。
真っ暗な空と、未だ明るい眼下。遠くに灰色の高架があって、広瀬川と交わっている。左手に外車のディーラーがあって、駅があって、その先に……
しばらく見ていないだけで何てことないこの風景も特別なものに思えて、そんなドラマティックな感情に思わず夏希は笑ってしまう。
「こんなことで笑えたんだ」
窓に息の後が白っぽく残った。
雪原祐介、そう名乗った彼はまだ大学生だった。
「宇宙の研究をしているんだ」
少し自慢げに彼はそう話す。日本有数の大学で、一流の研究者たちとひたすら研究と調査に打ち込む。そうやって没頭しているのが好きなんだと明るく笑う彼は、本当に同じ病気なのかと疑いたくなるほどだ。なんでそんな風に生きられるのか夏希にはまるで分からない。研究に没頭したって、長生きできるわけでもないのに。
「今は、小惑星用探査機の開発に携わっているんだ」
屈託のないその笑顔が痛い。病気じゃなく、未来を見て、今を生きる。夏希には決してできない。何を見るにも死がちらついて、視界を遮る。どんな感情にも恐怖が滲んで、黒ずむ。
同じ苦しみの渦中にいるはずなのに自分とはまるで違う雪原に、夏希の中でふと残酷な感情が湧きあがってきた。彼が心の奥に押し込んだ感情を引っ張り出したい。その張り付いた笑顔に現実と恐怖を突き付け、絶望させたい。自分でも驚くほど冷酷に夏希はそう思っている。
「雪原さんってなんで研究なんてしているんですか?」
雪原の声を遮り、感情に任せたまま口を開く。雪原の声は止まり、笑顔はにわかに強張った。こんなこと言うべきじゃない。次に喉にせり上がったセリフはもっと。それなのに口は止まらない。
「どうせ死ぬのに」
耳に入ったその言葉に夏希は自分の体温が急激に冷えるのを感じた。まるで自分にそう言い聞かせたかのように。感情に支配されていた理性が冷えた身体にゆっくりと戻ってくる。遅すぎる後悔が体を走った。
冷たさの中で自分はただ不幸を他人にも押しつけたかったのだと夏希は気付く。同じ絶望を誰かにも味わって欲しかった。共感して、一緒に苦しんで欲しかった。だがそれは所詮、幼子が感情を態度に、顔に表すのと何ら変わらない幼稚な行動だった。
目の前の椅子に座る雪原は何も言わない。その眼が何を見ているのかさえ夏希にはもう分からない。
私は自分の幼稚さでどれだけ人を振り回してきたのだろうか、不意にそんなことが頭をよぎる。わざわざ時間を削って会いに来てくれた雪原を、彼と会う機会をくれた久慈を困らせてひたすら愉悦を覚えようとした。家族だってそうだ。不幸を一人で背負い込んだみたいな顔で引きこもって、苦しさを理解させようとした。そして三桜。LINEの返信すらせず、彼を遠ざけた。それでも三桜なら私の感情を分かってくれると思って。
あまりに身勝手な自分が次々に思い出され、寒気が走る。病気に苦しんでいたはずなのに、自分もまるで病源菌かのように周囲を傷つけ周っていた。そしてそのことを省みようとすらしてこなかった。
今更、全てが過ぎ去ってようやく夏希はそのことに気付く。反省でも、後悔でもないまだらな感情が胸に流れ込んでくる。まどろみのようにドロッとしたそれが心を覆いつくしていく様を、夏希はなすすべもなく眺めていた。
激しい感情の狭間で夏希は雪原を見る。夏希を見つめたまま押し黙る彼を。一文字に結んだ口の中に、動かぬ表情の下に潜む彼の感情は夏希にはまるでわからない。ただきっと、自分が許されないほどに彼の心を傷つけたこと。それだけは残酷なほどに理解できた。
だから彼の喉が一瞬せり上がって、それから口が動き出した時、にわかに恐怖が走ったのだ。彼を傷つけたしっぺ返しをくらうことが怖くて。だが彼から出た言葉は、夏希の想像とはまるで違うものだった。
「錦見さん、あなたは残りの人生を何に使うんですか?」
はっとする。思えば部屋に入って最初に聞かれたこの質問に夏希は答えられなかったのだ。彼がなぜ同じ質問を繰り返すのか、その意図が掴めないまま夏希は雪原を見据える。
「僕も錦見さんと同じ病気に罹っています。知っての通り、寿命はもう長くはありません。」
夏希の答えを待たず、彼は淡々と続ける。ただそれがむしろ死を現実のものとして夏希に突きつける。
「もうおそらく数年で僕は死ぬらしいんです。そしてそれは僕が宇宙の研究をしたからといって変わることは無い現実です。」
彼自身の話のはずなのに、夏希は首元に強張りを覚えた。《《変わることは無い現実》》その言葉が刃物のように冷たく肌を撫でる。でも、そう彼は続ける。
「それでも………………いやむしろ、だからこそ、僕は研究に没頭していたいんですよ。宇宙の研究をしたって死ぬ。でも何もしていなくたって結局死ぬんですよ、僕たち」
悲壮感が薄れた目で彼はそう言う。
「だったら僕はここにいた証を残したい。レポートの備考欄でも、眠った研究結果のどこかでもいい。映画のエンドロールの1人でも、机に掘った名前でもいいんです。僕が死んだ後も、どこかに僕が生きていた証があるならそれで。」
ふっと小さく、彼は笑う。
「くだらないと思うでしょ?死んだ後に名前が残ったって無意味だって。その通りだと思います。でも僕は自分の証を残したい、そう本気で思っているんです」
泣きそうな顔で彼は笑う。そしてその顔のまま彼はまた聞くのだ。
「錦見さん、あなたは残りの人生を何に使うんですか?」
と。
「何に……か」
独りごとのように呟く。その声は夜の部屋に響くことなく消えていく。結局、その答えを出せぬまま夏希は窓の前に立ち尽していた。
ただそれでもカーテンを開けたその先に答えがあるように思えるのはきっと雪原のおかげなのだろう。どこかに答えはちゃんとある。久しぶりに落ち着いた気持ちで、夏希は強くそう思う。
昨日よりもずっと明るくなった部屋で夏希は、ずっと窓の外を眺めていた。




