他山
この十二分で何百回目かの長い溜息を夏希は吐いた。早く帰りたい、切にそう思う。
先ほどまで久慈と看護師もいた部屋に、今は独りだった。残酷なまでに真っ白な部屋で、夏希はひたすらに相手を待つ。
断るつもりだった。部屋から出て、他人と話して、そういう久しぶりの人間らしい行動で夏希はもう充分疲れていたから。それなのに
「その方も、夏希さんと同じ病気に苦しんでおられます」
久慈のその言葉がまるで魔法のように夏希の口を噤ませ、身体の自由を奪う。
「それでは十分ほどで来られるはずなので、ここでお待ちください」そう言ってパソコンを消し、椅子から立ち上がる久慈を夏希は金縛りにあったのかのように茫然と見つめていた。
ようやく体に力が戻ったのは、部屋に1人取り残されてからだった。
そうして十分強、夏希はこの部屋でただひたすらに会談相手を待っていた。
その間に思いがけず部屋の外に中庭があることを知った。陽光が薄く差し込む窓から覗くと、背の低い木とベンチが寄り添い合うかのように並んでいる。その葉はまだ青々しくて、まるで夏が置き忘れてしまったかのようだ。
終わった後、もし元気だったら行ってみようか。ふとそんなことが頭をよぎり、そんな自分に驚く。こんな風に先のことを思ったのは随分と久しぶりだった。
楽しみにしているのかもしれない、そう気付く。その理由が中庭に行くことなのか、これから人と会うことになのか、それとも両方か。夏希には分からない。それでも真っ暗な廊下にフットライトが点いたかのように、か細い光が心に揺れる。
どうせ会ったところで何も起こりはしない。自分は死ぬ。冷笑的に吐き捨てる自分が、小さな光を覆い隠そうとした刹那、思い出したかのように扉が開いた。
「初めまして」
そう言いながら扉を潜る。温和な顔、芯の強そうな目、パーマのようにわずかにカールした髪。細身に背の高いその人は、まだ若い男性だった。
そのアーモンド形の目に夏希が映る。ぼうっとしてしまうのは、彼がイケメンだからじゃない。その吸い込まれるような瞳のせいだ。
「ここ。座りますね」
夏希の返事を待つことなく、彼は久慈の椅子に掛けた。まるで向き合うような形で、夏希は彼と対峙する。
夏希を見据えるその顔は、左右で大きさの違う目を持っていた。優しさと鋭さの共存している、そんな顔。
その口から次に出てくる言葉が、自分をこの部屋から連れ出してくれる。話したこともないのにそう直感が告げた。まるで見飽きたミュージカルかのように次の展開を覚える。
違う。本当は私が願っているのだ、やたら冷静な自分がそう気付かせる。
車窓が、久慈が、中庭が、そして今目の前にいるこの人が、私をどこかへ連れ出してくれるんじゃないか。残酷な死への通り道を、彩ってくれるんじゃないか。そう切望しているのだ、錦見夏希自身が。
そんな思いを見透かすかのように、彼はただじ夏希を見つめる。じれったいようにゆっくりと時間が過ぎる。
身動ぎすらも躊躇われるような静寂だった。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、結局彼だった。すべての夏希の感情を読み取り終わったかのごとく、眼をゆっくり閉じて、また開く。心臓が高鳴り、気道を揺らす。
夏希の目の中で、彼の口がスローモーションよりもゆっくりと開かれる。
「錦見さん、あなたは残りの人生を何に使うんですか?」
やっぱり彼が私を連れ出してくれるのかもしれない。ぼんやりとそう感じた。
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