07 カルト教団の噂
「ガンギカンノンカイ? 何それ? なにかガンギマリになってる感じのアレぇ?」
実に素っ頓狂なことを、可愛らしいソプラノの声で言い放ったのは、チーママのマコである。
散々ジェニーにウィスキーのロックを注がれた戌井が、へべれけになりながらつい喋ってしまったのが、奥多摩の土産物品店の話だ。
「も、申し訳ない、その、今のは捜査情報でして……出来ればその、全部聞かなかったことに——」
「いや、でも馬渕くんの親父さん、見つかったんですよね? なんで黙ってるんですか?」
「それも深い事情があるんですよ、田貫さん」
はぁ、とため息を吐いてメガネをカウンターに置き、眉間を太い指で揉みほぐしてから『やれやれ、まったく』と呟いて熊川は顔を挙げる。
ちなみに熊川は、戌井とほぼ同じ量の酒を飲んでいるが顔色ひとつ変わらない。
戌井が酒の勢いで入れたボトルからウィスキーを飲んでいるジェニーも、よほど強靭な肝臓を持っているのだろう。ケロリとして顔色もほんのり赤くなっている程度である。
「馬渕くんは私の部下なんですよ。家族同然とは言わないですけど、彼はひとりで頑張ってるんです。もし良いニュースだったら、教えてあげたいんですが——」
「残念ながら、いいニュースだとは言い切れないんです。その、細かいことは中々ですね……」
「刑事さん?」
ママが少し薄めの水割りを作り、そっと熊川の前に差し出すと、胸元を強調するかのように前のめりに顔を突き出した。
「ここで聞いたことは、みんなお店を出たら全部忘れますよ。こんな場末のスナックでの与太話なんて、だぁれも真に受けないわよ?」
「い、いやしかし……」
「そこで寝ちゃったお巡りさんの寝言、全部そう言うことにしちゃえば良いんじゃないかしら。私達もお店を出たら、馬渕陽平さんが奥多摩にいた事とか、その奥多摩の土産物屋さんに今流行りの歓喜観音会の御本尊があったことなんかも全部忘れる。ね?」
「はいはーい、私バカだからわかんなぁい」
真っ先に反応したのはチーママだったが、実は彼女は国立大学を卒業した才媛である、ということはあまり知られていない。
「あ、あの、私まだ難しいの日本語わかラないです」
次に手を挙げたのは、田貫の接客を続けるミマこと白美真。
「あーぁ、私も日本人暦長いけど忘れちゃった。だいたいややこしすぎるのよねぇ、日本語って。ね? 刑事さん?」
としっかり日本語で話したのは、フィリピン出身のジェニーことジャネット・貂。
いつもの熊川なら、ここでも『いや、それでも機密ですから』と拒むことは出来たはずだ。
だが、すでにボトル3分の1程度を飲んで自制心が緩んでしまったのか、あるいはジェニーの日本人にはめったにないボリュームの、見事な胸の谷間に目を奪われて判断力が鈍ったのだろう。
水割りを半分ほど飲んで、熊川はぽつりと話し始めた。
「結論から言えば……馬渕陽一氏は、歓喜観音会に洗脳されている可能性があるんです」
「まぁ怖い」
「洗脳……タヌキさん、怖い」
「うへぇ、そんな、洗脳なんて本当にあるんですか?」
ミマはそっと田貫の手に自らの細い指をそっと乗せる。
「まぁ、カルト宗教が信者を洗脳して献金させる、という手段はよくあるんです。古くはオウム以前からもあります。新興宗教によくみられた手法です。歓喜観音会は、積極的に信者に対する洗脳を取り入れている、という疑いがあるんです。公安も目をつけている危険なカルト集団のひとつです」
「なるほど、歓喜観音会は確か、『商売繁盛の現世利益』を謳ってる新興宗教、じゃありませんでした?」
木常ママはなにかを思い出すかのような仕草で天井を見上げながら呟いた。
「御本尊、象の頭の仏像は、もともとはヒンドゥー教の神様、ガナーパティでしたっけねぇ? またの名をガネーシャで、中国で大聖歓喜天になり仏教に取り込まれて歓喜天になった。もともとインドでは学問の神様だったものが、商売繁盛も司るようになった——って感じだったかしら?」
「へぇー、ママ凄ぉい! なんでそんなこと知ってるの?」
心から感心したような声を挙げたチーママ伊立に、木常は妖艶な笑みを返す。
「ほら、マコちゃんもだけど長生きしてるとね? 色々あるのよ」
そう言葉をかけると、軽く水割りを口に含みカウンター奥の腰掛け椅子に腰を下ろした。
「まぁヒンドゥーの神様は色々おどろおどろしい逸話もあるんだけど、ガネーシャが学問と商売の神様なのは本当よ。たしか歓喜観音会は商売繁盛を約束する、みたいな謳い文句で中小企業主とかに人気だったんじゃなかったかしら? ウチにも勧誘来たわよ?」
「なッ——」
思わず熊川は腰を浮かしそうになるが、ジェニーの手が熊川の無骨な手に重ねられ、慌てて腰を下ろし直した。
「そ、それで? その、ママはその勧誘は……?」
「断ったわよ? 商売繁盛なら間に合ってますって。そんなことより、気になったのは『悩みがあるなら、観音様歓喜の妙薬ですぐに悩みも消せる』っていう文句だったわね」
「歓喜の妙薬……ということは、やっぱりコイツらはアレを——」
熊川は少しうつむき気味に、真剣な顔で何事かを呟きかけて、あわてて口を閉じる。
「あぁ、いや……すみません、今日は流石に飲み過ぎたようですので、そろそろお会計を。戌井さん、帰りますよ。ほら起きて」
うぅん、と苦しげな声を漏らした戌井の背中を豪快にバンバンと叩いて強引に起こすと、熊川はゆっくりと立ち上がる。
「はい、じゃあこちらお会計」
木常が差し出したメモには、至極真っ当な金額が記されている。
激安でもなければボッタクリでもない、どちらかというと良心的なお値段だ。
「当店は明朗会計で、まっとうな商売やってますから。これからも『お客様』として来られるなら、歓迎しますよ?」
「あぁ、ごちそうさまでした。それじゃあ」
「それじゃあ——ほらジェニー、マコちゃんもミマちゃんも、お見送り」
カウンター奥に美女が4人並び、戌井に肩を貸してドアへと向かう熊川の背中に声をかけた。
「行ってらっしゃい」
からん、と小さく音を立てたあと、静かにドアが閉まる音がした。




