40 導きの星
年齢不詳の謎の美女、鳩ヶ谷妙見の行方はまったくわからなかった。
奥多摩市部長である猪俣は相変わらず大麻の離脱症状に苦しんでおり、さらに彼は本当に教祖妙見の行方を知らない。
何なら、『鳩ヶ谷妙見』という名前が本名であるのか、年齢は何歳で、どこで何をしていたのかも知らない。猪俣耕太郎という男は、歓喜観音会という教団にとっては『切り捨てても痛くない』トカゲの尻尾でしか無かった。
「ったく、お前らの親分はどこ行ったんだかな」
「わ、私は知らん、知らんぞ」
「あぁわかってるよ。お前さんが何も知らされてねぇ、ただの下っ端だってことくらい、イヤっていうほどわかったよ」
「なっ」
戌井がパイプ椅子を引きずって猪俣が拘束されているベッドに寄せると、どかっとわざとらしく音を立てて腰を下ろす。
「なぁ、いい加減ゲロって楽になっちまえよ。要するにお前は、妙見に捨てられたんだよ」
「そんなはずはない! 妙見様は我々信者の事をお見捨てになったりしない」
「そうかいそうかい、そりゃ良かったな。お前らにあんだけ粗末な設備で、あんな物騒なブツを作らせておいて『お見捨てにならない』か。大した教祖サマだな。あんな設備であんなクスリ作ってりゃ、そりゃあ何人もヤク中になるわけだ。そんな場所で監禁なんざふざけたマネしやがってよ」
威嚇の唸り声を上げるドーベルマンのような戌井の迫力は、猪俣を萎縮させるのに十分すぎるものだった。
「大体手前ぇ、そんなナリで20代だってな? どう見たって50過ぎのオッサンなクセしやがって、俺より年下とか信じらんねぇな」
「お前のように信仰のないものには分からんだろう、我々は、文字通り命を妙見様に差し出している。我らの寿命そのものが妙見様のお力になる」
「何だよ、歓喜観音会ってのは商売繁盛の現世利益とやらのための宗教じゃなかったのか」
ぶふふはははは、と奇妙な笑い方で、つばを飛ばしながら猪俣はのけぞって笑い声を上げた。
しゃがれかけたその声は、目を閉じて聞けば老人の声のようにも聞こえる。
「そんなものはどうでもいい。何が現世利益だ、我々は生き仏様の一部となって永遠の命を得る。妙見様こそは、我々衆生を導く北極星。妙見様は、妙見『菩薩』様は、万難を排し我々を涅槃へ連れ立ってくださる、導きの星なのだ」
大聖歓喜天、ヒンドゥー教でいうガネーシャ神は、富と繁栄、学問と栄光、そして『障害の排除』を司る神である。
そして妙見菩薩とは、北極星や北斗七星を神格化したもの。
戌井自身は宗教に詳しくは無いものの、『歓喜観音会』の考え方やパターンを読む内、その考え方が少しずつ理解出来るようになってきた。
「よぉく解ったぜ、俺にはお前らの考える事が理解できないってな」
「愚かな衆生、凡愚どもなど救うに値しない、妙見菩薩様に己の命を捧げたものだけが、大聖歓喜観音菩薩の加護と妙見菩薩様の導きで涅槃へと到れる。妙見様は、必ず我々をお救いくださる」
一気にそこまで言い切ると、猪俣は目を閉じて呪文のような言葉を呟き始めた。
『|オン・ガム・ガナパタイエ・ナモ・ナマハ《大いなるガネーシャ神に心より帰依し奉る》』
『|オン・ソチリシュタ・ソワカ《妙見菩薩に心より帰依し奉る》』
これ以上の同席は無意味と判断したのか、戌井は病室の扉を開け警備の警察官に声をかけてから病院を後にする。
西東京署では、科捜研の分析の結果を受け緊急対策本部が設けられる事となった。
以前に、スナックFOXのチーママ伊立が『か弱い女性に襲いかかろうとして、バナナの皮を踏んづけて滑って転んで脱臼した』と供述した中年の半グレ達は、いずれもが20代前半であると判明した。
新型MDMAは短時間に集中的に快楽をもたらすかわりに、特に肝臓と腎臓、そして大脳に甚大なダメージをもたらすものである。
肝硬変、腎不全を誘発し、さらには脳を急激に萎縮させることでアルツハイマー型認知症にも似た症状を起こす可能性が非常に高いものだ。
「少なくとも、令和に入ってから摘発された薬物の中では、飛び抜けて毒性が強いものです。この合成麻薬を開発した鷲崎准教授は、改めて麻薬及び向精神薬等取締法で再逮捕されることになりました。米国で流通しているフェンタニルや、フェンタニルの次世代型と言われている『ニタゼン』とヘロイン、メタンフェタミン系の合成剤にも匹敵します。これが日本で流行するような事態は何としてでも避けねばなりません」
会議室にいならぶ警視庁の警視正や麻薬取締局、警察庁に加え国家公安委員会の面々に、よく通るバリトンの声で語りかける熊川は、西東京エリアにおいて薬害阻止と鳩ヶ谷妙見の捜索を指揮する立場となっていた。
「該当薬物は『歓喜の妙薬DX』と呼ばれていたが、我々はヒンディー語で意訳して『アムリタ』と仮称することとし、半グレ集団による密造および流通、拡大を全力をもって阻止すること、どうかご協力頂きたい」
かつて日本で戦後のヒロポンと呼ばれる薬剤の大流行が起き、昭和から平成にかけては覚醒剤やシンナーが、平成後期からは国内でもMDMAや脱法ハーブが、そして令和に入ってからも大麻やMDMA、オーバードーズが流行を続けている。
この上、『アムリタ』などという凶悪な薬物が流行してしまっては、戦後日本でも最悪の違法薬物蔓延の事態に陥りかねない。
「製造ルート、原材料の流通ルートについても、解明と撲滅には麻薬取締局、警察庁、公安、組織の枠を超えた協力体制が必要です」
「ありがとう、熊川警部補」
ゆっくりと立ち上がった初老の男は、龍ケ崎警視総監。事実上、東京都内の警察機構のトップに立っている男だ。
「仔細は手元の資料を参照されたい。日本が地獄に堕ちるか、それとも踏みとどまれるかの瀬戸際だ。今回西東京署の発見と対応が素早かったお陰で、生産拠点を2ヶ所潰すことができた。だがまだ都内、いや国内にも小規模ながら製造工場に流通ルートがあるはずだ」
少ししゃがれた、ドスの利いた声が会議室に響く。
「何としてでも探し出せ。探し出して、徹底的に潰せ。内閣官房長官も、総理大臣もこの件は最優先事項として当たれ、とおっしゃっている。失敗は許されんぞ。いいな!」
ざざ、と大きな音を立てて全員が一斉に立ち上がり、機敏な敬礼の姿勢をとる。
事件は、まだ始まったばかりであった。




