41 エピローグ
「大変なことになっちゃったみたいだねぇ」
珍しく、スナックFOXのカウンター席でシャンパンとクリームチーズを楽しむ鶴岡は、やれやれと呟きながらため息を漏らした。
この日、開店前の昼過ぎの時間帯に訪れた小柄な老人をもてなしているのは、珍しく和服ではなく露出の多いドレスを着ているママの木常であった。
「真理亜はしばらく自宅学習だし、テレビの報道番組でも新聞でも、新型薬物のニュースがしょっちゅう出るようになったわね」
「そうだねぇ。……ねぇママ、ちょっと聞きたいんだけどね?」
「あら、何かしら?」
「鳩ヶ谷妙見ってのは、ママのことじゃないんだよね?」
「違うわよ」
あまりにもストレートな問に、木常ママは苦笑を漏らしながら即答した。
鶴岡の細い目はじっと正面に立つ年齢不詳の美女の顔を見上げていたが、やがて安心したのか、『はは、ゴメンねぇ』と小声でつぶやいてシャンパングラスをぐい、と煽る。
空になったグラスにシャンパンを注ぎながら、あまりにも鳩ヶ谷妙見の特徴と合致する特徴が多い木常珠代は苦笑を漏らす。
「いやぁ、年齢不詳の美女って聞いたもんだからねぇ、僕にとっては年齢不詳の美女って言ったらママかなと思ってね」
「あら? チーママは違うのかしら?」
「あははは、チーママはねぇ、ほら、永遠の18歳だから」
「そうね、確かにあの子は『年齢不詳の美女』よりは『永遠の美少女』かしら」
「お、良いねぇ、それ今度チーママに言ってあげようかな。少しサービスしてもらえるかも知れないねぇ」
「ツルさん? 知ってると思うけど、うちは当人の同意のないお触りは禁止だからね」
「大丈夫大丈夫、そこまで汁気たっぷりの爺さんじゃないつもりだよ」
静かながらも、どこか緩く、それでいて緊迫感のある会話。
その会話に割り込むように、開店前のスナックのドアを開いた者がいた。
「やぁやぁ鮫原くん、道大丈夫だった?」
「す、すみません鶴岡会長、遅れまして」
「いやいや。ママ、紹介するよ。彼は鮫原くん。八王子の南側を仕切ってた鮫原組の組長さん」
「あら、その筋の方? ウチは一応、反社の皆さんのご利用はお断りしてるんだけど」
「あぁ、彼は今日は客じゃなくってね、僕の使い走りとして来てもらったんだよ。店にはその筋のモノは立ち入らせないから安心して。そうだね? 鮫原くん?」
「は、はい、それはもう、もちろん……」
鮫原は、まだ夏日が続く季節柄か、顔中にびっしょりと汗をかいていた。
彼は下部組織ジャッカルによるMDMA密造の関係者として、警察署に『自首』をしたのち、知る限りのことを洗いざらい白状した後、保釈金を支払って娑婆に戻ってきている身である。
「にしてもずいぶんな汗だねぇ? まさかとは思うけど鮫原くん、クスリ、やってないよねぇ?」
「め、滅相もない! 鮫原組でも取り扱いは厳禁にしましたんで!」
「ってことは、ついこないだまでは扱ってた、と」
「あ」
両手の小指の第2関節から先がない『ヤクザの親分さん』は、脂汗と冷や汗を同時に顔から滝のように流して後ずさる。
「まぁまぁツルさん、そうイジメないであげて」
「そう? いいの? じゃあここはママに免じて、だね。解ってるよね鮫原くん? キミはたった今、木常ママにとんでもない恩が出来たからね? 理解した?」
「は、はい……この上なく、完全に、理解しました……」
「うんうん、解ってくれて嬉しいよ。やっぱり物わかりの良い子分っていうのはありがたいモンだねぇ。それで? 鳩ヶ谷妙見と歓喜観音会については何かわかったの?」
「そ、それが……その……まだなんとも……」
「おや、日本のヤクザもずいぶんと質が落ちたモンだねぇ。そんなんだから半グレみたいな若い衆を持て余すんじゃないのかねぇ」
「面目次第もありません……」
穏やかにシャンパンを傾けつつ、カウンターに両肘を着いたまま、鶴岡は少しだけ上を向き、カウンター奥の棚に並べられたボトルキープの瓶を眺める。
真新しく、まだ全然中身が減っていないサントリー角瓶に目を向けると、視線を動かすこともなく穏やかに話を続ける。
「ねぇ鮫原くん。僕の新しい友人にねぇ、警視庁の刑事さんと警部補さんがいるんだよ」
「鶴岡会長に、警察のご友人が、ですか」
「おや、何か不思議かな? 今の僕はただの年金ぐらしの一般市民。そこら辺にいくらでもいる、ごくごく普通のジジイだよ。さみしい年寄りは何かと心細いからねぇ、お巡りさんと仲良くなっておいて損はないでしょ?」
呟くような声で『おっしゃるとおりです』と声を出し、鮫原は先程から水飲み鳥人形のように頭を繰り返し下げていた。
「鮫原くんにも、僕の『友人』の一人として、警察と協力してほしいんだよねぇ」
「お、俺が、警察と協力、ですか?」
「ま、ダメならムリにとは言わないけどね?」
鮫原は青ざめた。
ヤクザと警察など、水と油以前の天敵同士である。普通なら、警察に協力しろなど盃を交わした親分の命令であっても拒むところだ。
だが、今回は相手が悪かった。
東日本のドン、『東の鶴、西の亀』と並び称された、日本のヤクザの歴史に名を残す大親分、鶴岡信太郎直々の言葉である。拒んだりしたら、東日本で今なお鶴岡を慕う数千人の極道から睨まれる事態になるのだけは間違いない。
「よ、喜んで、協力させて頂きます……」
「そうかいそうかい、いやぁ良かった。鮫原くんならそう言ってくれると思ってたよ。じゃあ僕の友人の警部補さんにも話しておくから。よしなに頼むよ?」
「はい……あ、ありがとうございます、鶴岡の大親分……」
店を後にした鮫原は、鶴岡の重圧から逃れられた解放感からか、迂闊にも気づく事が出来なかった。
長い黒髪の美女が、物陰から彼の後ろ姿をじっと見ていたことに。




