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39 学び舎へ伸びる魔の手

「端的に言えば、このクスリは『ほんのいっとき、数時間の快楽のために数年の寿命を奪う』ものだと思って間違いありません。極めて強い覚醒作用に、いわゆるトリップ作用、そして毒性と依存性を持ち合わせた、日本の違法薬物史上でも相当にタチの悪い部類に入ります。薬学部の白さんならご存知でしょうか、エトミデート、いわゆる『ゾンビタバコ』という薬物がありますが、あれをより悪質にしたものです」


 ひっ、と悲鳴のような声を上げて、カウンター奥のミマが青ざめて立ち尽くした。

 怯えたような表情で田貫に歩み寄り、まるで助けを求めてすがりつくような目を向ける。


「た、タヌキさん、あれ絶対ダメでス。絶対に触っタり、飲んダりしたらダメです」

「う、うん、もちろんそんな事しないよ。大丈夫。ミマちゃんに心配かけるようなことしないからさ」


 ゾンビタバコとは、麻酔薬の一種『エトミデート』を電子タバコのリキッドに混ぜて吸引するものだ。

 少量でも非常に毒性が強く、意識障害や精神錯乱、幻覚に意識混濁が起きる。

 さらに、手足の痙攣をはじめとする運動機能障害を生じさせ、自分の身体のコントロールを奪ってしまうばかりでなく、呼吸そのものを抑制する作用があるため、呼吸困難に陥ることもある。


「中国でモ流行ってるところ、ありマしたです……微博で何度も見マした、怖い、あれ絶対ダメです、ダメなヤツです」

「そうですね。白さんの仰る通り、エトミデートは日本でも指定薬物に指定されてます。『笑気麻酔』だの『リラックスリキッド』といったふうに名前を変えて売られているものもありますが、真理亜さの、ジェニーさんのお嬢さんが通う高校の生徒が持っていたのは、このゾンビタバコよりもさらに悪質な薬物です」

「そ、そんなのが娘の学校に……」


 ジャネットの褐色の顔色がにわかに青ざめた。

 我が子を学校に通わせている母親としては悪夢以外の何物でもないだろう。薬物が蔓延している学校など、危険で到底安心して子供を行かせられるものではない。


「校長先生には警察の方からも事情はお話しています。恐らくですが、今日明日にでも学校から保護者に連絡が行くと思いますが、学校内での薬物汚染の状況が分かるまではコロナの頃のように自宅学習なると思います」

「そ、そうですか……それはその、少し安心なんですけど……でも、学校にクスリなんて一体どこから?」

「そこも今調べていますが、どうやら騒ぎを起こした生徒の一人の保護者が、歓喜観音会の信者であるようです」

「えー? そんなとこまでつながってんのぉ? ヤだぁ、怖ぁい。ねぇツルさん、私ヤだ、そんなクスリが流行ったりするの怖ぁい」


 戌井が『どこかで聞いた口調だ』と思いつつも、アルコールに負けず表情を制御できたあたりは刑事としてくぐった修羅場の恩恵だろう。

 

「うんうん、そうだねぇ。やっぱり麻薬はダメだねぇ。クマさん、ワンちゃん、どうかなぁ。これはちょっと、もう手をこまねいていられる状況じゃないよねぇ?」

「仰るとおりです。特に東京都内はこの新型MDMAが複数個所で摘発されてます。警視庁は先日の奥多摩でのガサ入れ以降、歓喜観音会を危険なカルト集団として警戒しています。麻薬取締局とも共同、特に警戒している半グレにも目を光らせているところです」

「なるほどねぇ……これは僕もぼんやりしてちゃダメかもしれないねぇ……チーママ、ちょっと電話してくるから、白ワインもう1本良いかなぁ?」

「はぁいツルさん、ありがとうございますぅ」


 いつもの明るく屈託のない笑顔と、幼く聞こえるソプラノの朗らかな声を聞きながら、鶴岡はスマホをもって店の外へと出ていった。

 熊川と戌井の2人は、その小さな背中を緊張の面持ちで見送った。彼らは、鶴岡の正体が東日本を『統一』したと言われる、いわゆるヤクザの大親分である事を知る者は少ない。


 店の外側で何事かを穏やかに話す鶴岡の声は、ドアに阻まれてよく聞こえない。

 だが、その内容がどう表現しても穏当なものではないであろう事は、熊川にも戌井にも想像出来てしまう。


「ジェニーも心配だろうし、どうする? しばらくお店休んでも良いわよ?」

「ううん、どうせあの子、家で大人しくなんてしてられないだろうし……くれぐれも変なところに近づかないように言い聞かせるしかないわね。こればっかりは娘を信じるしかないわね」

「そうね……ねぇ寅ちゃん、時間空いてるときでいいから、真理亜と一緒にいてあげてくれる? あの子にブレーキかけられるのってチーママか寅ちゃんくらいだもの」


 相変わらず無口な寅之介は片眉をあげ『また俺っすか、しょうがねぇ』と言わんばかりの顔を木常ママに向けた。


「あ、じゃあママ、私一緒にいよっかぁ? 私別に昼間あんま予定ないしぃ」

「あら、そうなの? じゃあ寅ちゃんと2人で真理亜についてあげて。ジェニー、良いかしら?」

「そうしてくれると安心だわ、朝とか家にいるときは私が一緒にいてあげられるけど、流石に外に出られるとそうも行かないから」


 スナックFOXがほぼ総出で、唯一未成年の真理亜を護るための布陣を敷く事になった。

 真理亜はこうして、常に周囲の大人たちから守られて育っている。

 自分でそのことを意識することはあまりないものの、幼い頃から愛情を注がれて育ったためであろうか、真理亜は大変まっすぐに、天真爛漫に育っている。


「あの子、正義感が強いのは良いんだけど喧嘩っ早いから」


 母ジェニーの言葉に、全員が苦笑しながらも頷くことになる。

 その中には、『現場』を目の当たりにした戌井も含まれていた。 

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