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37 歓喜の妙薬

「これほど皮肉なネーミングはありませんよ。歓喜の妙薬DX(デラックス)だそうです」


 スナックFOXでは、開店直前の時間帯にもかかわらず店内は通常営業時よりも人が多く詰めかけていた。

 店長であるママの木常に、チーママの伊立はもちろん、薬学部3年生でバイトの白美真もカウンターの内側に立っている。

 カウンター席には長身の母娘、ジャネットと真理亜が座り、真理亜の隣には寅之介も腰掛けていた。


「ったく何がデラックスだってんだよなぁ……成分分析の結果はまだ出てないが、まぁMDMAの一種で間違いないだろうな。真理亜ちゃんがボコボコ——じゃない、制圧した6人と、例の人質を取って暴れたやつは病院に運ばれたよ」

「あ、あの刑事さん? 正当防衛ですよね? 娘は何か罪に問われたりとかしませんよね?」


 ジャネットは、娘に怪我が無かったかどうかよりも、過剰防衛になっていないかどうかの方が心配であった。

 真理亜がチーママ伊立に合気道を習い始めたのは、小学校2年生になった頃だった。

 当時から伊立を『おねえちゃん』と呼んで懐いていた真理亜は、ジャネットが度々小学校に呼び出されるほど喧嘩っ早い性格であった。

 ただ、彼女が手を出すのは先に手を出されたときか、仲の良い友人を護るためである。

 困り果てたジャネットに救いの手とも言える提案を出したのは、伊立の方である。


『力が有り余るなら、その力の使い方を教える』


 と、合気道錬士五段の腕前を持つ伊立から『護身のための技術』として、合気道と柔術の技術を学ぶことになる。

 格闘技の才覚に恵まれた上、ここ2年ほどは寅之介からの総合格闘技の手ほどきも受けており、『段位』こそ持っていないものの、真理亜はそこらのチンピラ程度なら軽々と制圧できるだけの武力を持ち合わせていた。


「ま、まぁそうだな……娘さんは未成年だし、それに相手は鈍器を持った上薬物で正常な判断力を失った状態だったからね。まぁ、多少……多少? その、制圧時の攻撃が過剰になるのも……」

「あぁんお母さん、私怖かったの。だってガンギマリの上級生が女の子人質にして襲いかかってきて、脱げとか触らせろとか殺してやるとか言ってくるんだもん。何がなんだかわかんなくって夢中で抵抗してたらああなっちゃっただけなの」

「…………そういうことに、しておきましょう……」


 真理亜の棒読みな言い訳を伝授したのは、もちろん伊立だ。

 整った顔立ちの真理亜のウィンクに、伊立も幼い顔ながら慣れたウィンクを返すのを、戌井と熊川はやや呆れた顔で見逃すことにした。


「とりあえず、今回はそう言うことにしますが、出来ればああいった事態に巻き込まれないように、距離を置いて下さい。良いですね?」

「はぁい、わかりましたぁ」


 これほどに実感の伴っていない肯定の返事など他にないであろう、という見本のような返事を返して、真理亜とジャネットは解放となった。座る席を奥のテーブル席に移すと、寅之介が手を伸ばしてすぱんと軽く真理亜の頭をはたく。

 睨みつける真理亜に、まるで手の早い妹を嗜める兄のような、『だから言っただろうが、手ぇ出す前によく考えろ』とでも言いたげな表情を返す。


「良い? 真理亜、寅ちゃんも真理亜のこと心配してくれてるのよ? チーママも、ママも、ミマちゃんだってそう。お願いだからもうちょっとこう、手を出す前に踏みとどまってちょうだい」

「だぁってお母さん、私悪くないもん」

「悪くなくても。寅ちゃんから教わったでしょ、実力行使をする以上は、その結果には責任がつきまとうんだって。子どものケンカじゃないの。下手すれば真理亜が殺されてたかも知れないのよ? そうなったらお母さんどうやって生きてけばいいのよ」

「……はぁい、ごめんなさい……」


 さすがの真理亜も、半泣きの母の説教には頷くしか無かった。

 ちら、と遠目でその様子を確認したのか、熊川はようやく安堵の表情を浮かべ木常ママに向き直った。


「ママ、すみませんが鶴岡会長——いや、ツルさんにこのクスリが学校で出回っていることを伝えてもらえませんか」

「あら、良いのかしら? 捜査情報なんでしょ? 私がツルさんに伝えたりして問題になったりしない?」

「はい。ツルさんからは、ママもツルさんの事情はご存知だと聞きました。それに、ママなら信頼して大丈夫だとも太鼓判を頂いてます」

「あらあら、そうなの? そこまでツルさんに言われちゃ断れないわね。じゃあクマさん? 引き換えにってワケじゃないけど、今度ウィスキーのボトルでも1本入れてくださいな。そしたら協力しますよ?」

「わかりました。じゃあサントリーの角瓶を1本、入れましょうか」

「ありがとうございます。チーママ、クマさんから角瓶ボトルキープ1本頂きました」

「あらっ、ありがとうございまぁす♪ まだ開店前だけど、どうしますぅ? ロックにします? ハイボールにしますぅ?」


 店の奥から手早く角瓶を取り出したチーママ伊立が、満面の笑顔で瓶の首に『クマさん』と名札をかける。


「いや、我々はまだこれから仕事ですので。じゃあボトルキープはおいくらですか?」

「そうねぇ、クマさんは常連さん扱いで、3000円で。よそよりは安くしてますから、他の店に浮気したりしないでくださいね?」

「ははは、ママには敵わないですね。じゃあ、ちょうど3000円」

「はいどうも。領収書はいるかしら?」

「いえ、領収書なんてもらっても経費じゃ落とせません。自分で飲みに来ますよ」


 何かを諦めたかのような、それでいて少し嬉しそうな熊川に、木常は妖艶な笑みを見せる。

 屈強な羆が、狐に化かされている——やり取りをすぐ隣で見ていた戌井は、上司とママの表情からそう感じ取ってしまった。

 自分自身が、とっくにジャネットの色香の虜になっていることなど、まったく自覚することもなく。

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