36 間に合わなかった
寅之介が、真理亜の通う高校の校門前にたどり着いたときには、すでに何台ものパトカーが集まってきていた。
「寅之介さん?」
車から降りた寅之介に歩み寄って来たのは、熊川である。
巨漢熊川のすぐ後ろからは、ドーベルマンのような鋭い眼光の戌井も続いてきている。
「どうしたんです、ここは危険です」
「真理亜が」
熊川も戌井も、寅之介の声を聞いたのは初めてだった。
いかつい外見に似合わない、テノールよりもやや低目であろうか、少しハスキーな、優しげな声だった。
「真理亜が中に」
「真理亜……ひょっとしたら、ジャネットさんの娘さんの真理亜ちゃんですか!?」
「急がねぇと、間に合わない」
「ま、待って下さい! ここは今は警察が管轄を——って寅之介さん!?」
熊川の制止を軽快なフットワークで交わし、高さが1.5メートルはあろうかという校門を軽々と飛び越えて、寅之介は音もなく校内に駆け込んでいった。
「戌井くん、行って下さい! 彼は確か、総合格闘技の経験者です。でも相手は薬物を使っています、たがが外れた人間は何をするかわかりません!」
「了解っす! ったく、手間かけやがってあの金髪ハゲ!」
大きなストライドで戌井が駆け出し、寅之介と同じように校門を飛び越える。
学校の校舎内では、ほんの数十分前まで悲惨な光景が広がっていた。
よりによって校内にMDMAを持ち込んだ者が居たのだ。
公立で、なおかつ進学校などではない実業高校、それも工業高校で科によっては『名前を漢字で書けば受かる』と揶揄されるような科もある。
そんな科には、真面目に学ぼうという大多数の学生に混じって、あわよくば荒事で名前を上げよう、迷惑系ユーチューバーなどで有名になってやろう、という不届きな考えの持ち主も少なからず存在する。
そんな者たちの中には、明らかに違法で危険な薬物であることがわかりきっているのに、あえてスマホのカメラの前で、怪しい蛍光色のクスリを口に入れる者が一定数いた。
機械学科の実習室の前で、女子生徒の髪を掴んでうめき声を上げている、金髪ロングの男子生徒も、その中のひとりだった。
「さっさとその子離しなさいよ。外には警察だっていんのよ」
「あ……ああ……ああぁ……」
ぐるぐると、およそ哺乳類には不可能であろう眼球の不規則な動きに、不自然に荒い呼吸。
全身から滝のように吹き出す脂汗、震える指、おぼつかない足元は、金髪の男が心身ともに正常でない事を雄弁に物語っている。
「クスリでガンギマリになっても、丁寧に丁寧に自分より弱いやつにしか向かっていかないの、ホントむかつく。私、あんたみたいなやつ大っ嫌い」
人質になっている女子生徒と、金髪の男に向かい合うように立っている長身の女子は、OA情報システム科1年生の貂真理亜であった。
周囲には野次馬というよりは、明らかにおびえている様子の学生たちが遠巻きに3人を眺めている。
通常なら、怯える相手はガンギマリの金髪の男であるはずだった。
だが、周囲の生徒たちの怯える視線は、明らかに真理亜に向けられていた。
真理亜の足元には、すでに気絶しているガラの悪い生徒が6名ほど横たわっている。
中には、肘や膝、手首や足首が人間の関節の可動域から明らかに外れた状態になっているものがいる。いや、『中にはいる』というよりも、ほぼ全員がその状態だ。
「ほら、かかってきなさいよ。1年生の女子にナメられて、悔しくないわけ?」
「あああああああ!」
「真理亜!」
金髪の男は、人質となっている女子を壁に叩きつけるように投げ飛ばすと、凄まじい勢いで真理亜に襲いかかった。
普通ならば、誰もが女子である真理亜の身に迫る危機に戦慄を覚えてしまうことだろう。
だが、次の瞬間、工業高校の廊下では金髪の男の身体が完全に上下逆さまになる。
頭頂部が廊下の床に触れる瞬間、真理亜の情容赦ない下段の踵蹴りが、金髪男の顔面に正確に叩き込まれる。
「……間に合わなかったか……」
呟くような寅之介の言葉は、野次馬や渦中の真理亜の耳には届かなかった。
すぐ隣に立つ戌井だけは、寅之介の優しげな、それでいて呆れ返ったような声を聞いていた。
「真理亜」
「ん? あ、トラ兄ちゃん?」
つかつかつか、と大股に真理亜へ歩み寄ると、寅之介は軽くぱし、と真理亜の頭を叩く。
自分よりも背の高い真理亜をジロリと見上げるその目つきは、いかにも『やりすぎだこのバカ』とでも言いたげである。
「えー、だってぇ……怖いじゃん。ガンギマリだしさ、暴れるしさ、掴みかかってくるしさぁ。やっぱヤるしかないじゃん、か弱いオンナノコとしてはさぁ」
盛大に溜息を吐いて『どこにか弱いオンナノコがいるんだよ』とでも言いたげな表情で、周囲に倒れ込んでひいひいと鳴き声を上げている男に歩み寄る。
じろ、と変な方向に曲がった関節を睨むと、寅之介はとんでもなく強引な、激痛を伴うであろう方法で全員の関節をはめていく。
ごきん、という音が響くたびに、まるで獣の咆哮のような悲鳴を上げる。
耳をつんざく悲鳴で我に返ったのか、戌井がようやく真理亜に歩み寄ってきた。
まるで兄に叱られた妹のようにむくれている真理亜は、戌井の顔を認めると『あっ』と声を上げてぺこりと小さく頭を下げる。
「確か、貂真理亜ちゃん、だったか」
「はい、貂です。あの、コイツら捕まえて下さい。ガンギマリですよ、学校なのに。何でしたっけ? ナントカ取締法で」
「う、うん、まぁ……とりあえず、真理亜ちゃんに怪我は?」
「あ、無いです。大丈夫。私こういうの慣れてますんで」
「……どうして慣れてるのかは、後で一応聞かせてもらうとしようか……どれ、人質になった子は、怪我は?」
廊下にへたり込んだままの、インテリアデザイン科の2年生女子は、ガクガクと震えたまままだ喋れないでいた。
通常、学校内で薬物を伴う人質事件に巻き込まれた女子高生の反応としては、こちらがよくある反応であろう。
「さぁてと、じゃ私はこの辺で。今日の1限目日本史だったっけなぁ、ヤだなぁ、ダルいなぁ」
そそくさと歩き去ろうとする真理亜の手を、素早い動きで寅之介が掴む。
じろ、と見上げる寅之介は、表情だけで『何逃げようとしてんだ、説教だ』と語っていた。




