35 落ち着いた駅、騒がしい学校
「へーぇ、それじゃ駅前のあの変なおっさん達ももういないんだ」
助手席の真理亜が緊張感のない口調でそう言うと、ハンドルを握る寅之介は小さく頷いた。
「なぁんだ、テスト勉強のストレス解消の相手が居なくなっちゃった」
信号待ちのタイミングで、思い切り眉間にシワを寄せ怪訝な顔で『何言ってんだお前』とでも言いたそうな顔を真理亜に向けると、浅黒く日焼けしたような肌の真理亜は『にひ』と明るい声をあげて歯を見せて微笑んだ。
「じょーだん。そんな自分からケンカ売ったりするわけないじゃん。でもさぁ、なんかおかしかったんだよねー、駅前にいる半グレっていうの? なんか同じ服着てる同じ人……っぽいのがさ、急激に老けてくの。あれ? この人先週も居たけどなんか急激に老けてない? って感じで」
寅之介は視線を前に戻してゆっくりと車を走らせる。相変わらず、彼は口を閉じたままだ。
「アレもさー、やっぱあの変なクスリのせいだったりするのかなぁ。トラ兄ちゃん、何か知ってる?」
視線と顔を正面に向けたまま、片眉をピクリと動かす。『知らねぇよ』とでも言いたいらしい。
「なんかさぁ、学校でも話題になってて、ホームルームなんかでも先生が言って来んの。最近、西東京のいろんなとこの駅でさ、ピンクだったり緑だったり青だったりで、いろんな錠剤配ってる奴らがいるんだって。受け取るな、受け取っても絶対に開けるなってさ」
真理亜が通う高校は、八王子駅から2駅の場所にある公立高校だ。
女子が少ない工業高校で、OA情報システム科というコースに通う真理亜は、現在スナックFOXの関係者の中で最もPCやIT機器に関して豊富な知識を持ち合わせている。
第2位となるのが、意外なことにママの木常だ。日頃からスマホやタブレット、それにノートパソコンも自在に使いこなしている。
「トラ兄ちゃんもさぁ、ダメだよ? そういう変なものもらっても食べたりしたら」
駅前に到着し、車を止めた寅之介は怪訝そうな、不機嫌そうな顔で『食わねぇよ、チーママじゃあるまいし』と言わんばかりに真理亜を睨みつけた。
「あははは、だよねぇ。それじゃ行って来まーす。あ、今日6限終わったら図書館で友達とテスト勉強してくる。終わったら電話するね」
こくり、と頷いてから寅之介は車を走らせる。
駅構内や出口周辺でたむろしていたガラの悪い『中年』たちは、現在全員が病院で処置を受けていた。
雑居ビルの粗末な化学工場で生成した麻薬の、新しいレシピを『試食』した彼らは、旧型と同じ容量で錠剤を口に入れてしまった結果、完全なオーバードーズ状態になってしまった。
急性中毒により命の危機にさらされたものも数名いたが、幸いなことに全員が命をとりとめている。
ただし、その離脱症状は地獄などという生易しいものではなかった。
旧型の場合は、服用期間が短い場合には離脱症状が軽かったのだが、新型は1度でも服用すると48時間以内に再服用しないと激しい離脱症状に見舞われることになる。
頭痛、めまい、吐き気、激しい全身の倦怠感に悪寒、筋肉の痙攣、幻覚、幻聴、せん妄がほぼ同時に襲いかかってくるという、悪質この上ない効能をもつクスリだった。
半グレ集団『ジャッカル』に、新型のレシピがもたらされたのは、大学での原料横流しスキャンダルが報じられる直前のことだ。
ジャッカルでも本名は掴んでいなかった初老の男、後に鷲崎准教授であることが判明する男の遣いとしてやってきた学生によってもたらされたレシピと材料で『試作』を重ねていた矢先に、熊川と戌井の家宅捜索が入ったため、新型が市場に出回る事はすんでのところで防がれていた。
ただし、この遣いの学生は後に歓喜観音会によって拉致され、その弟までもが拉致監禁の犠牲になっている。
ぱん、と後ろから軽くクラクションを鳴らされて我に帰った寅之介は、信号が青になっていることにようやく気がついた。
ハザードを2回点滅させてから車を走らせると、途中のコンビニに入り込んで質素な朝食を口にねじ込んでいく。
おにぎりを3口でひとつ腹に収めて、ほうじ茶で喉を洗い流す、という動作を3回繰り返して、車を自宅の駐車場へ向かわせる。
寅之介がスマホの振動に気付いたのは、帰宅してから日課の筋トレを済ませプロテインの豆乳割りを飲んでいる時のこと。
液晶に映し出された発信者の名前は『真理亜』だった。
通話ボタンを押して耳に押し当てると、真理亜の小さな囁き声が聞こえてきた。
「トラ兄ちゃん、大変なの、い、今、今ね、学校の中なんだけど、ヤバいの、クスリやってそうな男子が、刃物もって暴れてて、友達が人質に——」
「すぐ行く」
見た目によらず低い、そして優しげな声だった。
寅之介は通話をつなげたまま車に乗り込み、ブルートゥースのヘッドセットを耳に押し込んだ。
寅之介はめったに喋らない。
それは、自分への戒めのためでもあった。
彼が総合格闘技を引退するきっかけとなった試合がある。その試合で、寅之介は不慮の事故で相手の生命を奪ってしまった。
挑発的な発言や行動が酷い相手で、典型的なヒール、リングを降りればただのチンピラという男だった。
だが、試合とは言え人の命を奪ってしまったことには変わりはない。
この一件は事故として処理され、寅之介は『ルールに則った競技中の不慮の事故による死亡』として罪に問われることはなかった。
が、この試合を最後に、寅之介は競技を引退。自らへの戒めであろうか、寅之介はほとんど口を開かなくなった。
数少ない例外が、真理亜とママの木常の2人だ。
妹分であり、自分を『トラ兄ちゃん』と慕う真理亜の危地ともなれば、沈黙を守っている場合ではない。
「待ってろ」
そうヘッドセットのマイクが拾えるギリギリの声量で呟いて、トレーニングウェアのままで玄関を飛び出した。




