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31 聖母ジェニー

 いつも通り、ミマの作るハイボールを飲んでデレデレと鼻の下を伸ばす田貫の隣には、スナックFOXのご新規様として連れられてきた青年、馬渕陽平の姿があった。

 新規でやってきた顧客は、ほぼ例外無くセクシークイーンであるジェニーが対応することになる。


「さ、どうぞ。こちらはサービスの、ナッツとチーズの盛り合わせと、それからジンジャーエルハイボールですね」


 ジェニーには、『相手が飲める限界ギリギリのライン』を見極めるという特技がある。馬渕は決して酒が強い方ではない。あまり飲ませたらすぐに潰れてしまう。

 ある程度飲める田貫や、酒に慣れている鶴岡と違い、酒に弱い客にはアルコールの量を調整して水割りやハイボール、カクテルを作ることが出来るのは、ベテラン嬢の成せる技だろう。


「じゃあ馬渕さん、どうぞどうぞ。それじゃママ、チーママもミマちゃんも。ご新規の馬渕さんの用意が出来たわよ」

「あら、ありがとジェニーちゃん。それじゃあ馬渕さん」


 ひょい、と木常ママがグラスを持ち上げると、店の全員が手元のグラスを掲げた。


「お帰りなさい。ようこそFOXへ」

「あ、え? えっ、あの、おかえりなさい、ですか?」

「そうそう。そうだよぉマブちゃん。このお店はね、私ら客の立場だと、店に入るときには『ただいま』で、出るときは『行ってきます』なの。良いもんだよぉ? 私みたいな独り身にはさ、『おかえり』って言ってくれる人なんてだーれもいないしさ?」


 すでにハイボールを半分ほど飲んでいる田貫は、相変わらずお気に入りの嬢、ミマが接客をしてくれることで上機嫌だ。

 馬渕も、父の納骨直後から少し血色も良くなり、仕事中の昼食も田貫と『ちょっとさ、たまにはそこの蕎麦屋でも行こうか。蕎麦屋のカレーって美味いよねぇ』と妙なこだわりについて話が出来るくらいには回復している。


「お帰りなさい、か……そうですよね。僕ももう言う相手もいないなぁ……」

「何言ってんの、マブちゃんまだ若いんだから、今からいっくらでも出会いあるって。それにねぇ、私も別に子供がいるわけじゃないけどさ? もし親孝行ってのがあるとすれば、それは子供が幸せでいることが一番なんじゃないかなぁ? どんな形でもさ、やっぱ子供が幸せでいてくれるのが、親にとっては一番うれしいんじゃないかな? どうかなジェニーちゃん?」

「そうそう、それよタヌさん。ホントそれ。やっぱりねぇ? 親の幸福が子どもの幸福に直結するとは限らないけどね、子供の幸福は親の幸福に直結すると思うのよ。少なくとも私はそう。真理亜がどんなにヒドい成績でも、あの子が幸せそうに笑ってくれてるだけで良いのよ。やっぱりね、あの子が元気で、幸せそうに笑ってくれるのが一番。他の親孝行なんてね、もうオマケみたいなものよ」


 シングルマザーであるジェニーことジャネットにとって、娘である真理亜の笑顔と健康は、どれだけの金品をもってしても変えられない宝物だ。


「だからね、馬渕さん? あなたがもし今からご両親のために何かしたい、って思われるなら、馬渕さん自身が幸せになること。元気でいること。その2つだけで良いのよ」


 優しく落ち着いた、艶のあるアルトの声で語られる言葉に、まだ21歳の馬渕陽平は惚けたように聞き入ってしまった。まだ若い馬渕の視線は、しっかりとジェニーの胸元に向けられている。

 新たな常連誕生の瞬間であった。


「さ、とりあえずはお酒で燃料入れましょ? あんまり強いお酒じゃないほうが良いわよね?」

「あ、は、はい……」

「お好きなお酒があったら何でも言ってね? カクテルがお好きならウチにはバーテンもいるし、日本酒も焼酎もあるから」

「ありがとうございます……あの、とりあえずこれ、飲んでから考えます」

「えぇ、どうぞごゆっくり」


 にこ、と優しい微笑みを浮かべるジェニーの虜となった馬渕は、チーズを手に持ったまま口を半開きにして、多くの新規客を虜にしてきたジェニーの後ろ姿を目で追い続けている。


「あっ、そウだタヌキさん、タヌキさんの忘れ物、預かってマした」

「え? 忘れ物?」


 馬渕の惚けた顔を見て苦笑しながら、ミマこと白美真は田貫に小さな紙片を差し出した。


「みんなきっト、これタヌキさんのお仕事のメモじゃないかッテ」

「え? 何これ、私のじゃないなぁ」

「えー? 違うのぉ? それ絶対タヌさんの何かの仕事のメモだと思ったんだけどなぁ?」


 店の奥からチーママの伊立も声をかけてきた。

 メモはちょうどこの日、開店直前にジャネットの娘、真理亜が店の床に落ちているのを見かけたものだ。


「ほらぁ、タヌさんって機械使うじゃない? その手順とかナントカじゃないのぉ?」

「いや、今の印刷機ってほら、レバーとか有りはするんだけど、こんな右左とかじゃなくってね……これどこにあったの? ここ?」

「そうそう、それねぇ、真理亜ちゃんが拾ったの。ミマちゃんと勉強中に。機械の手順じゃなきゃ何かの道順じゃないかって」

「道順ねぇ……道順って、どこからどこへの?」

「んー、わかんない」


 ケロっと実に軽く答えたチーママと『だよねぇ、わかんないよね』とデレデレと答えたタヌキの次の言葉に、全員が静まり返る事となる。


「マブちゃんの親父さんもさ、居場所分かるのにこういう道順みたいなのがあればよかったのにねぇ」

 

 しん、と店内が静まり返る。

 全員の目がハイボールのグラスと、馬渕の前に置かれたナッツの皿からマカダミアナッツを拝借している手に注がれる。


「え? あ、や、ご、ゴメンねマブちゃん? や、私の分もあったかと思ってさ? ゴメンゴメン、ミマちゃん、私にもナッツの盛り合わせ——」

「いやいやタヌさん? ナッツじゃなくって。いま凄く大事なこと言わなかった?」

「え? 盛り合わせ?」

「じゃなくて」


 ジェニーの容赦ないツッコミにオロオロとうろたえる田貫の向かい側、ミマはじっとメモを見下ろしていた。

 

「タヌキさん、あの、私いま思たデスけど、この道順てひょとしタラ——」


 ミマは真剣な面持ちで田貫、そして馬渕へと視線を移した。


「マブチさんのお父さんのお店に行くか、お店かラどこかに行く道順、じゃないデスか?」


 薬学部3年、名門四川大学卒業の才媛、美真の言葉が終わるよりも前に、木常ママはカウンター下からタブレットを取り出し、地図アプリを起動し始めていた。

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