28 公の立場
「警察官としての熊川さんと会うのは、随分と久し振りになりますねぇ」
実に穏やかな表情で、テーブルの上に運ばれてきた椀物に手を伸ばす。
両手で漆塗りの椀を大切そうに持ち上げてから、右手で箸を丁寧に上から持ち上げ、椀を持っている左手の小指で支えてから手際よく箸を持ち替える。
日本料理、とくに会席料理を食べるときの、美しい所作だった。
「さ、どうぞどうぞ。このお店はね、何食べても美味しいんですよ」
「鶴岡『会長』、私は警察官です、鶴岡会長のようなお立場の方との会食というのは——」
「僕はね、もう引退した身です。今は『会長』なんかじゃありませんよ、ただの鶴岡慎太郎、そこら辺によくいる、ただの年金ぐらしのジジイですよ。もちろん、このお店も私の前の『職場』とは何の関係もない、いいお店ですよ。さっきの先付けも美味しかったでしょ?」
熊川は、どこか不安げな戌井の隣で数秒押し黙ってから、緊張の面持ちを対面に座る鶴岡に向けた。
「いただきます」
「く、熊川さん、良いんすか」
「鶴岡会長……いや、ツルさんとの私的な会食だ。問題はない」
「そうそう。『昔の仕事』はとりあえず置いといてね。今の僕は、ただのジジイで、スナックで知り合った『友人』を食事に誘っただけ。そうですね? クマさん」
「はい」
熊川の緊張は戌井にも伝染したのだろう。戌井は箸を持ち、片手で椀を持ち上げるとその縁に口をつける。
「うっま!?」
「あははは、でしょ? 出汁の美味さがわかるなら、ワンちゃんは良い舌してますよ」
「わ、ワンちゃん?」
「そう、戌井さんだから、ワンちゃん、ほら、田貫さんだってタヌさんだし、熊川さんもクマさんで、僕だってツルさんだからね」
「いや、それは流石に——」
「戌井」
思わず身を乗り出そうとした戌井を、視線と超えだけで制した熊川は、鶴岡の作法に倣って丁寧に漆椀を持ち上げる。
「ここのご主人はねぇ、京都と博多だっけ? 修行したの」
「はい」
「まだお若いんだけどね、腕前は凄いんだよ」
古民家を改装したという日本料理店『朧』は、5年ほど前にオープンしたばかりの知る人ぞ知る店だ。
当然、鶴岡がなぜこの店を知っているのか、その事情は誰も知らない。
「ま、どれを食べても美味しいからねぇ。ご主人、日本酒を料理に合わせて適当に出してくれる?」
「はい、かしこまりました」
板前の男は、必要最小限しか話さない。
店の奥には座敷があるが、熊川や戌井がついているテーブルは、キッチンと同じ土間に置かれたアンティークものだ。
「本来ならねぇ、床の間のある座敷が良いんだろうけど、僕も歳でね、畳に座るのはちょっとキツくてねぇ。椅子席で失礼するよ?」
「いえ」
戌井は、鰹節と昆布を贅沢に使った一番だしの椀物を夢中で飲み干すと、放心したかのように『ぶはぁ』と息を吐く。
丁寧にとった出汁に、ほんのひとつまみの塩と数滴の醤油。
旬の海老で丁寧に作った真薯の甘みが引き立つ味だった。
「あの、鶴岡会長——」
「ツルさんにしてくれないかなぁ? もう僕は『会長』じゃないからねぇ」
「熊川さん、その会長っていうのは……?」
ふぅ、と大きく息を吐き、ぎち、と肩の筋肉に力を入れると、大柄な熊川は軽く鶴岡に会釈をすると顔をすぐ隣の戌井に向ける。
「ツルさん……鶴岡さんはな、東日本最大の広域暴力団、鶴岡会の先代さんだ」
「え——」
広域暴力団鶴岡会。
数多くの下部組織を従え、構成員は総勢8千人を超える。実に日本にいる暴力団、いわゆるヤクザ者の半数を従える超巨大組織。
東日本の暴力団はほぼ全てが鶴岡会傘下であり、『関ヶ原から東側は鶴、西側は亀』と言われている。鶴岡会と亀多川会で、日本は二分されていた。
この西日本の亀多川会との歴史的な『手打ち』、つまり不戦協定を成立させたのが、目の前で汁椀を美味そうにすすっている小柄な老人、鶴岡会初代会長、鶴岡慎太郎である。
「まぁ、あの世界からは足を洗って長いからねぇ」
「まさか、あの店でお会いするとは思いませんでした」
「あはは、そうだねぇ。僕も思わなかったよ。クマさんは確か——そう、昔は警視庁のマル暴だったよねぇ?」
「え、く、熊川さん、昔マル暴だったんですか?」
「まぁ、ね」
熊川は、警察官になってからもその恵まれた体躯と怪力を買われ、警視庁本部のマル暴、組織犯罪対策課に配属されていた。
十数年前、鶴と亀の和睦成立の場に立ち会ったのは数名のマル暴の男たち。
これで、日本中で繰り広げられていた抗争が終わる、そう考えた若き熊川は慣れない正座に耐えながら、マル暴のトップであった課長に、非公式ながら同席していた警視正が見守るなか、鶴岡とサインをする姿を見ていた。
このときの鶴岡は、今の優しげな好々爺とはまったく違う、紛う方無きヤクザの大親分であった。
巨漢熊川とは比べ物にならないほど小さな身体からは、マル暴課長だけでなく警視正、居並ぶひとかどのヤクザですら緊張を強いるほどの迫力と圧力を持つ男だった。
「ま、昔の話だねぇ」
「そう……ですね」
「おまたせしました、今日の向附はアオリイカのお造りと、今が旬のイサキの炙りです。塩でどうぞ」
戌井がまったく気づかないうちに背後に立っていた板前は、穏やかな声で料理の説明をすると、音もなく板場へと戻っていった。
「さぁさぁ、頂きましょうか。まだコースは始まったばかりですし、クマさんもワンちゃんも、聞きたいことも色々あるでしょ。僕も話さないといけないことが色々あるからねぇ」
嬉しそうに目を細めた老人、鶴岡は、いつの間にかテーブルに運ばれていた徳利に手を伸ばすと、『ほら』と軽く声をかけて熊川の前に差し出す。
戌井にとっては非常にもったいないことに、このあとの絶品料理の味など覚えていられないほど緊張を強いられる、夕食会の始まりだった。




