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27 あ、軽い空気

 からん、とカットガラスの中で、琥珀色の液体に浮かぶ氷を鳴らしてから、驚異的な肺活量で息を吐く。

 まるで本当に巨大なヒグマが目の前に座っているかのようなボリューム感で、熊川が軽く上を向いて肩の力をふっと抜いた。


「それじゃあ、そのジャッカルとかいう半グレはもう大丈夫なのかしら?」

「はい。もう拠点にあったものも全部警察が押収していますし、全員が急性の薬物中毒の状態でしたので、麻薬及び向精神薬取締法、麻薬使用の現行犯で逮捕しています。まぁ、今は病院で処置を受けていますが、ジャッカルの構成員とみなされていた者はひとりを除いてほぼ全員、もうダメでしょうね」

「あらやだ、怖いわぁ……もうダメって、死んじゃうってこと?」

「あぁいやいや、死にはしないと思います。ただ——」


 ちらり、と熊川が店の奥、テーブル席へと一瞬だけ視線を向ける。

 その先では、相変わらず老人が小柄なチーママと、グラマラスなジェニーを侍らせてシャンパンを楽しんでいた。


「アレだけのブツを——クスリを押収されたら、組織としてはもう終わりでしょうね。金銭的にも、『信用』の面でも」

「ふぅん、半グレにも信用ってあるのね」

「もちろんです。ああいう連中は、ある意味ママたちのようなカタギの仕事よりも信用第一ですから。どこに卸す予定だったかはまだ裏が取れてませんが、アレだけの資材が警察に押収された、というのは、仕入先にも卸先にも『足がつく』原因にしかならないですからね。真っ先に切り捨てられますよ。下手をすると、物理的に切り捨てられます」

「やだやだ、怖いわね。下手すれば奥多摩のダムか東京湾辺りに切り捨てられちゃうのかしら?」

「それで済めば、まだ良いほうかも知れません」


 ふぅ、と大きく息を吐いてグラスの中を飲み干すと、ひょいとカットガラスを掲げて見せる。


「おかわり? 同じのでいいかしら」

「はい。同じのを」

「クマさん、なかなかイケる口みたいね?」

「クマさん?」

「そう。熊川さんだからクマさん。ほら、田貫さんだってタヌさんだし、鶴岡さんはツルさんだもの。ねー? ツルさん?」

「はいはい、どうしたのママ? ありゃ、ひょっとしてチーママとジェニーちゃん独り占めしすぎちゃったかな?」

「良いの良いの、どうせお客さんツルさんとクマさんしかいないんだから。今日はミマちゃんは久々に大学だし、のんびりやりましょ」

「そうだねぇ、ミマちゃんも大学が再開して良かったよねぇ。いやぁ、学生さんの本分は勉学だからね、良かった良かった」


 相変わらず好々爺のような口ぶりで鶴岡は軽くシャンパングラスを掲げて見せた。

 ボトル1本で1万円ほどの価格帯のシャンパンを、惜しげもなくチーママのマコとジェニーに振る舞う辺り、鶴岡の懐具合の分厚さが見て取れる。


「鶴岡さん」

「ツルさんでいいよ? ほら、知らない仲じゃないんだし。ね? クマさん?」

「いえ、こういうときはちゃんとお礼をお伝えしないといけないですね、鶴岡会長」

「クマさん、そこまでにしようか」


 ぴし、と店内の空気がまるで凍りつくように冷たく、そして重くなる。

 にこやかな表情も、穏やかな口調もまったく変わらない。

 だが、鶴岡の『気配』はほんの数秒前とは比べ物にならないほどの威圧感を漂わせている。


「そうよクマさん? お店の中じゃ、誰でも平等にお客様。鶴岡さんがどこの誰でもツルさんだし、熊川さんが警部補だろうが警視だろうが、お店の中じゃクマさん。当然、タヌさんとも平等。それがこのFOXのルール。ダメかしら?」


 ママの声は、鶴岡の威圧の中でも、あまりにも『いつも通り』であった。

 しなやかで、暖かく、そして軽やかな言葉と表情。

 田貫が『いいお店なんだよ』と語る、スナックFOXを象徴する空気だ。


「……すみません、『ツルさん』。それにママも」

「うんうん、分かってくれたら良いんだよ。ま、お仕事の話があるなら、またそれはここ以外の場所でね? 僕もここでは『お仕事』のことは考えたくないから。ねー? チーママも、ジェニーちゃんも」

「そうそう、オンとオフは切り替えなきゃ。ねぇツルさん、私ちょっとお腹空いちゃったぁ。ジェニーちゃんが作ったレアチーズタルトあるの。頼んで良ーい?」

「ほうほう、ジェニーちゃんのタルトかい? そりゃあ美味そうだね、僕ももらおうかな。クマさんはどう? 甘いのイケる方?」

「あ、はい。チーズ系なら」

「よしよし、じゃあ皆に奢っちゃおう。ママもどうぞ、全員でジェニーちゃんのタルト頂いちゃおう」

「あら嬉しい。良かったじゃないジェニーちゃん? タルト売り切れじゃないかしら」


 はいはい、と軽く言葉をかけながら、ジェニーはカウンター奥の冷蔵庫へと向かう。


「あら良かった、5つあるわ。ねぇママ、1コあとで真理亜に食べさせて良い?」

「もちろん良いわよ。あの子チーズタルト好きでしょ? あとカスタードクリームも」

「よく知ってるわね、さすが」


 ジェニーが嬉しそうな笑みを浮かべながら、タルトを美しい黒い釉薬のかかった陶器の皿に取り分ける。

 チーママのマコが鶴岡にタルトを運び、熊川にもやたら小さく見えるタルトを差し出した。


「そりゃあね。だって私はあの子のママですから」

「そそ。そんで私はおねーちゃん」


 にこやかな笑顔のチーママに、ジェニーが苦笑を向けた。


「あら、チーママは末っ子だと思ってた。もう頭ひとつ分くらい、真理亜の方が背も高いのに」


 店内に明るい笑い声が響く。

 先程までの、まるで氷漬けの鉛のような、冷たく重たい空気はどこかへ吹き飛んでいた。

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