25 帰る場所があるということ
「マブちゃん? もう良いの? って痩せたねぇ……大丈夫じゃなさそうだね?」
アニマルプリントサービスの整備係の部屋には、基本的に2人しかいない。
整備係長を務める田貫と、キャリア4年目の馬渕だ。
「無理しないでも大丈夫なんだよぉ? 印刷機止まったって別に人が死ぬわけじゃないんだからさ?」
「いえ……すんませんタヌさん、ずっとお休み頂いちゃって。なんかこう、手、動かしてないと頭がおかしくなりそうなのと、あと有給ももう無くって」
「あ、あぁそっか、そうだよね。なるほど、うん、確かにそりゃそうだ……ってほら、後付でも慶弔休暇使えるからさ——」
「慶弔休暇使って、有給がもう残りないんです」
「あー……そっか、ゴメン、ゴメンねぇ、なんかこう、上手いこと言えなくって」
「いや、なんか帰ってホッとしました。タヌさんらしいです」
「あれ、それって褒められてる?」
はは、と苦笑を漏らして、馬渕は改めて田貫に向かって深々と頭を下げた。
まだ若い馬渕は、父親が見つかったところから実に2週間以上、仕事を休み続けていたのだ。
「すんませんタヌさん。ご迷惑おかけしました。これからまた働きますんで、よろしくお願いします」
「うんうん、よろしく。まぁラッキーなことに、ここんとこ印刷機も調子いいし、ほら調子悪かった2号機もさ、こないだメーカーさん来てもらって。それ以来調子いいんだよ。だからまぁ暇っちゃ暇だから、うん。リハビリだと思ってぼちぼちやろう」
「はい。ありがとうございます」
馬渕は、田貫の元へやってくる前に社長にも頭を下げていた。
解雇か、それかどれだけ良くても自己都合で退職しろ、と言われるかと思っていた。
だが、社長からかけられた言葉は、田貫の言葉をもっと体裁よく、エレガントな言い回しにしたものだった。
「何ていうか……色々とこう、まだ捨てたもんじゃないなって思いました」
「そうだよぉ。だってマブちゃんまだ若いんだからさ。まぁ切り替えるとかそう簡単に出来ることじゃないし、軽々しく言っちゃだめだけど、マブちゃん生きてんだから。親父さんの分まで元気で生きなきゃだよ?」
「ありがとうございます……」
「そうだ! アレだ、マブちゃんまだこう、色々大変だろうけど、気持ち的にも落ち着いたらさ? 私の行きつけのお店行こうか。カワイイ子もいるし、ご飯は美味しいし、お酒も美味しくて明朗会計なとこがあるんだよ。ね?」
「ありがとうございます。今はその、まだちょっとそういう店行ける感じじゃないですけど、もうちょいして落ち着いたら連れてってください」
馬渕の父、陽一の葬儀は結局のところ行われていない。
離脱症状や肝不全、腎不全、肺がんの治療にあたった医師の話によると、陽一は『見つけられなかったら、もうとっくに死んでいたはずだ』ということだった。
皮肉なことに、苦痛を感じなくさせるMDMAが、奥多摩にいた頃の陽一の生活を穏やかなものにしていた可能性が高い。
だが、それはあくまで『鳥井健三』としての生活であり、馬渕陽一として穏やかに生きた事にはならない。
「タヌさん」
「ん? どした?」
「生きるって、難しいですね……」
「難しいよねぇ。何ていうかこう、大抵のことはうまく行かないしさ。何かと行き詰まっちゃうしさ? でも、そういうときに逃げ込める先を持っとく、ってのは大事だよ。まぁ私の場合は、それがスナックなんだけどね」
「スナックって、さっき言ってた行きつけのお店ですか?」
「そうそう。いいとこだよぉ? ま、お金はかかっちゃうけどね」
苦笑交じりの笑みを浮かべて、馬渕は狭いオフィス内の自分の席に腰を下ろす。
この日は定期的なメンテナンス作業が入っているだけで、特段トラブルの対応予定などはない。田貫曰く『平和な一日』だ。
一方の熊川は、病院の医師から渡されていたメモをじっと睨んでいた。
「右、右、左、右、左、左、左、右、左……」
「熊川さん、どうしたんです?」
「あぁ、戌井くんか」
「さっきから右左って、何の暗号ですか」
「暗号……暗号か……そうか、何かの暗号かもしれないな」
熊川はパソコンのキーボードの上をじっと睨んでそのまま動かなくなってしまった。
「の、り、の、り、の、ま、く、き、く……」
「ノリノリの幕聞く? いや、熊川さん何すかそれ? それこそ何かの暗号ですか?」
「あぁ、いや……パソコンのキーボードで、右手の人差し指がJのキーで、ひらがなは『ま』だったから、そこから右にひとつ、右にひとつ、左にひとつ……かな、と思ったんだが、違うね」
「違いますね。そもそもどこから、どっちを見て右なのかとかも分からないじゃないですか」
「そうだよな」
「熊川さん、そのメモって何なんです?」
戌井はかなり怪訝そうな顔で、大きな手に握られているメモを覗き込む。
「これは、馬渕陽一さんが亡くなったベッドの、枕の下に置かれていたものだそうだ」
「馬渕陽一の——メモですか?」
「あぁ、何かを意味するものだとは思うんだが、それが分からない」
「何すかね……何かの道順とか?」
「道順か……道順だとしたら、どこからどこへの道順か、だな」
「熊川さん、今日んとこは考えてもあんま進まなさそうです。どうです? 例のスナックで一杯やってから帰りませんか?」
ふぅ、と大きくため息を吐いてから、ゆっくりと熊川が立ち上がる。
同じ成人男性の戌井がはるかに見上げるような巨体で、筋肉の壁が目の前に現れたかのような錯覚に陥るほどの体躯だ。
「そうだな、もうこんな時間か……一杯だけだぞ」
「別に奢れとは言わないですよ。自分の飲み代くらい、自分で払います」
「そうか。まぁあの巨乳のお姉さんに潰されないようにな」
熊川はノートPCを閉じ、ジャケットを指で引っ掛けるようにして持ち上げると、周囲に『お疲れさん』と声をかけてオフィスを後にする。
ここからスナックFOXまでは電車で2駅。そして徒歩合計30分の道のり。決して近いとは言えない。
だが戌井も熊川も、すでに狐に化かされたかのように、FOXに足が向くようになってしまっていた。




