20 最悪の目覚め
馬渕陽一が正気を取り戻した、という知らせは、陽平を通じて戌井へともたらされた。
正気を取り戻した、というよりは、離脱症状の地獄の中で自分の意思を取り戻した、といったほうが正確であったかもしれない。
「それじゃあ親父さんとは……まだ話せてないのか」
「はい。話すも何も、自分をまったくの別人だと思い込んでいたようで……自分のことを鳥井健三という、60歳の男だと思いこんでいるみたいなんです」
「60歳? 親父さんは確か、まだ50前なんじゃないか?」
「はい。父は今年50になるはずなんですが……どういうわけか、自分のことを別人だと信じ込んでる……というのが、医師の話でした」
「DNA検査は?」
「しました。99%の確率で、僕の父だという鑑定結果でした」
警察署を訪れていた馬渕陽平は、痩せて疲れ果てていた。
つい先日釈放し、広島への転居を予定しているという鷺宮と似たような容貌だ。精神的なストレスに身体的な疲労が、限界近くまで蓄積している事は明らかだ。
「陽平くん、最近ちゃんと眠れてるか?」
「…………眠っては、いない、かも……」
「食事は? 今日の昼は食べたのか?」
「いえ……」
「よし、ちょっと食べに行こう。何か食えそうなものはあるかい?」
「いえ、そんなことよりも——」
「陽平くん、今一番大切にしないといけないのは、君がちゃんと食って寝ることだ。仕事も休んでるんだろ? その上カラダを壊したりしたら目も当てられない。かなりキツい状況だとは思うけど、だからこそ食べないとダメだ」
戌井の言葉にも陽平は答えない。
なかば虚ろな表情のままうつむいて、幽鬼のように立ち尽くしている。
「辛いよな。せっかく、ようやく会えたと思ったら……でもな、親父さんも生きてるんだし病院で保護出来たんだ。少なくとも、どこにいるのか、生きてるのかどうかもわからない状態からは果てしなく前に進んだんだ。でもこれから長い時間がかかることになる。持久戦を戦い抜くには体力がいる。体力を保つには、食って寝なきゃいけない。良いか?」
「はい……」
陽平はこの日、久々にまともな食事にありつくことが出来た。
金の問題もあったが、何より1人残された肉親が自分のことを思い出せないというショックは、かなり強烈なものとなっている。
「とりあえず、明日俺が病院の親父さんに話を聞いてみる。陽平くんは今日飯を食って、家に帰ったら風呂に入って寝るんだ。良いね?」
「……わかりました」
「よし、じゃあ食べに行くぞ」
陽平が戌井に連れられて、まったく胃に優しくないトンカツを食べに行っている間、病院では熊川が『自称鳥井健三』の主治医との面会に臨んでいた。
老け込んだ容貌は変わらないものの、自分の名前が鳥井健三『ではないかもしれない』というところまでは思い出せているとのことだった。
「——では、ご自身がどれくらいの間、あの店で働いていたかも思い出せない、ということですね」
「はい。まぁ酷いものですよ。薬物と洗脳で、記憶を上書きされているようなものです」
鳥井健三こと、本名馬渕陽一は両手足をベッドに拘束された状態であった。
血液検査の結果、陽一は重度の薬物依存症に似た状況であることが分かっている。
現在断薬をしているが、離脱症状が非常に重く、息子の陽平も現在のところ面会が出来ていない状態だ。
熊川に資料を手渡した初老の医師は、少し疲れたような表情でメガネを外し、目頭をマッサージし始めた。
「おそらくですが、メタンフェタミン系の薬物を投与された状態での催眠術というか、ほぼ『洗脳』の手法を用いたんでしょうね。昔、テロを起こしたあの例の宗教団体と同じような手法ですよ。薬物と『信仰』を利用した洗脳です。断薬しても正気に戻るまでには、かなりの時間がかかると思います。そもそも戻れるかどうかも……」
「そうですか……それで、何か歓喜観音会について話はしていましたか?」
「一応記録は取っていますが、決定的な事は……ただ、関係があるかどうかはわかりませんが『右、右、左、右、右』といった方向を呟いてはいました。パターンの類があるのかはわかりませんが、一応録音データはお渡しします。まぁ、意味はなさそうな気はしますけれども」
「わかりました、ありがとうございます。しかし……気の毒というか、どういう経緯でこんなことになったんでしょうね」
「わかりませんねぇ、鳥井さん……じゃなかった、馬渕さんですか。彼がどういう経緯で歓喜観音会に入信したのか、そもそも自発的入信かどうかも怪しいですね」
「自発的入信かが怪しい、というのは?」
「要は、薬を盛られて拉致されて、そのまま洗脳された、というパターンです。某国の政治犯収容所で使われてる手口です。精神医学というか、まぁどちらかというと軍隊の手法に近いようなものですね。洗脳の成功率向上と、洗脳が完了するまでの時間の短縮のために薬物を使う手法です。歓喜観音会の被害者の事例で、馬渕さんと同じようなものがあるようなんですよ」
ふぅ、と忌々しげなため息を吐いて、熊川は手帳を閉じる。
強化ガラス越しの病室で、拘束された状態の馬渕陽一へ目を向けるが、初老としか見えない男は口の端に泡を浮かべ、歯を食いしばって身を捩っている。
がしゃがしゃとベッドの金属製のパイプが軋む音に混じって、まるで獣の唸り声のような声まで響いていた。
「じゃあ先生、また何かわかりましたら」
「はいはい。お疲れ様です」
病院の建物を出てから、熊川はスマホを手に取り通知が何件か届いていることにようやく気がついた。
2件は戌井からで、陽平を食事に連れて行くことと、先に署に戻るという内容。
そして1件は、スナックFOXのママ、木常からの営業であった。今日は軽食メニューが割引になるから是非、という内容だ。
「流石に……少し疲れたな」
小さく呟いて、熊川は駅へと歩き始めた。




