19 思わぬ人脈
スナックFOXでは、もう何度目かわからない乾杯のあと、ミマとジェニーの二人に飲まされた田貫が上機嫌になってカウンターで鼻の下を伸ばす一方、いつものテーブル席でチーママのマコと鶴岡が鷺宮と静かにワイングラスを傾けていた。
本来ならば鷺宮の釈放祝いであったのに、なぜか2回くらい『タヌさんの釈放を祝してぇ?』とチーママの悪乗りも混ざってしまっていた。
「広島、ですか?」
「そうなんですよ。実はね、僕の知り合いに私立の大学なんですけどね? 薬の研究をしている人がいましてねぇ。その人の今の助手さんがもうすぐ産休に入られるらしいんですよ。ただ、かなり大切な薬の研究を製薬会社と組んでやっているとかで、研究に穴を開けるわけにもいかない。でも助手さんの出産予定日は迫ってきている。薬学の研究者はいるにはいるけれど、そうそうフリーの方がいるわけじゃない。さて困ったな、と」
マコが小さな手でワイングラスを持ち上げ、鶴岡にしなだれかかる。
傍から見れば、まるっきり『お祖父ちゃんにお小遣いをせびる孫娘』の図だ。
「えーたいへぇん。ねぇツルさん、それってどんな薬なのぉ?」
「いやぁ、お薬の事は僕もよくわからないんだけどね? 何でも痛み止めとか麻酔薬とか、その関係らしくってねぇ。僕も一応ね、昔の商売柄ちょっとばかり顔が広いもんだから、誰か『若手の薬学の研究者で、博士号を持ってるくらいの人で、研究内容が研究内容なだけに、モラル意識も高くて、出来ればフリーで広島で一緒に研究できる人』がいないかって言われててね。偶然だけど、ついこの前そういう話が来てね、それで鷺宮さんにぴったりなんじゃないかと思ったんだよ」
デレデレと嬉しそうに目尻を下げてマコに微笑みかけてから、鶴岡はそのままの『孫娘に激甘なデレデレお祖父ちゃん』の顔を鷺宮に向けてきた。
「どうでしょうかね? もしよろしければ、名刺を預かってますから今日お渡ししちゃいましょうか?」
「ぜひ! ぜひお願いします! あの、僕から直接連絡しても構いませんか?」
「そうですね、じゃあ明日にでも僕から一報入れときましょうか。ただね、研究に対してはかなり厳しい人みたいですから、楽な仕事じゃ無いと思いますよ?」
「むしろ望むところです。研究に厳しい人のほうが、ちゃんと『研究』をさせてくれそうです」
「そうですかそうですか、そりゃあ彼も喜ぶでしょうねぇ。じゃあ、明日僕から鷹村センセイに連絡して、鷺宮さんにご連絡するように伝えましょうか」
「広島で、鷹村先生……ってまさか、あの、備中薬科大学の鷹村教授!? えっ? あの鷹村教授とお知り合いなんですか!?」
備中薬科大学の鷹村は、麻酔薬の研究において国内では第一人者と呼ばれるほどの傑物である。
まだ50歳手前と、教授としては若手ではあるものの、将来のノーベル賞候補とすら呼ばれる男だ。
「鷹村先生はねぇ、まぁ昔ね、仕事でお会いする機会がありましてね? 僕もね、若い頃はいろいろな仕事をしたもんですから、いろいろな人とお知り合いになる機会があったんですよ」
「い、いや、でもあの有名な教授とお知り合いだなんて……鶴岡さんはその、一体——」
「はいはぁい、鷺宮先生? ダメよぉ」
カウンターの端で梅酒のグラスを傾けているママ、木常が優しげな声で鷺宮の言葉を遮った。
「こういうお店ではね、お互いに詮索しないのがマナーよ? ね? ツルさん?」
「そうだねぇ。特にねぇ、お店の子たちの年齢と過去は聞いちゃダメだよ。チーママの歳なんて、もうずっと通ってる僕でも知らないんだから」
「えーツルさん酷ぉい、私ずーっと18歳って言ってるのにぃ」
「あははは、チーママは18歳やって何年目だっけ? 18歳のベテランだねえ?」
「あれぇ? 私バカだからわかんなあい」
きゃははは、と明るく幼げな笑い声につられてか、ジェニーとミマも苦笑いを浮かべる。
田貫が『デレデレ』な顔でミマとジェニーの胸の谷間を見比べているカウンターのさらに奥、キッチンでは相変わらず一言も喋らない寅之介が休憩を取っていた。
いつもの、場末の小さなスナックFOXの光景だ。
「そうなんですね……すみません、失礼しました……」
「いえいえ、それじゃあそうだ、善は急げだ。もう今電話しちゃいましょうかね」
鶴岡は懐からスマホを取り出すと、『えーっと』と呟きながら連絡先の一覧を素早くスクロールさせると、画面を数度タップして素早く電話をかけ始めた。
鷺宮があっけにとられてしまっている間に、すでにスマホを耳に当てている。
「あぁ、鷹村くん? 夜分すみませんねぇ、鶴岡です。お変わりない? あぁそう、そりゃ良かった。人間、平穏無事が一番だねぇ。今度学会とかはいつ来るの? 東京は——へぇ、今は学会もリモートっていうやつなんだね、いやぁ、便利な世の中になったねぇ。まぁ、東京に来ることがあったらまた教えてちょうだいよ。美味しいスペイン料理の店見付けたから。——はいはい、あぁ、あとね? こないだ話してたアレ、助手さんが産休に入っちゃうっていうアレなんだけどね? 最近僕がお知り合いになった方で、薬学博士で大学の講師をしてた人がいるんだけどね? 今一緒にいるけど、どう? ちょっとお話してみる? このまま、この電話で」
ちら、と鶴岡が視線を向けた先の鷺宮は、いつの間にかママに差し出された水をぐいっと飲み干して、引き締まった表情のまま小さく頷いた。
「——はいはい、あのほら、今ニュースになってるじゃない? あの大学の——そうそう、横流しの。あれを内部告発した人でねぇ、モラルは間違いないと思うよ? ——うん、それじゃちょっと待ってね」
鶴岡は嬉しそうに目を細めて、スマホを鷺宮へ差し出した。
「はい、鷹村くん。ぜひ話ししたいってさ」
一気にアルコールが何処かへ飛んでいったのか、緊張の面持ちの鷺宮は両手で推し頂くように、鶴岡のスマホを受け取った。
「お、お電話代わりました、鷺宮と申します」
いつの間にか、スナックFOXの店内は静まり返り、ただ田貫の静かないびきが聞こえるのみとなっていた。




