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16 凶報

 熊川はこの日珍しく、勢いよくビールを何杯も飲んでいた。

 ジャネットが注ぐグラスを次から次に空にして、大瓶2本をわずか10分で空けたあとは、寅之介が作る『ほとんどウォッカ』といえるほどの強い酒を4杯飲んでから、ようやく息を吐いてうなだれた。

 警察にとって、留置場にいる被疑者の自死はとんでもない不祥事である。

 直接熊川が関わったわけではないものの、警察の不手際であることは間違いない。こうして熊川がヤケ酒を飲む事など、実に数年ぶりのことだった。


「そう、穴熊さん……そんなことに……」

「ちょ、ちょっとあの、刑事さん? そんな、穴熊さんってその、本当に自殺だったんですか? あのひと、自殺するような人だとは思えないんですけど」


 珍しく沈痛な顔のママ、木常とは対称的に、田貫は未だ納得できない、と言わんばかりの表情でハイボールを飲んでいる。


「そうだねぇ、僕もタヌさんの意見に賛成だねぇ……こういっちゃ何だけど、あの人『自分の悪事の報いで追い詰められてしまった』というような場合でもね、『全部アイツのせいだ、俺は騙されたんだ、俺は悪くない』って考える人だよ。僕は今までいろんな人を見てきたけどね、彼は間違いなくそう考える。自殺するくらいなら、人に全部責任を被せて平気でパチンコをうち続けられる。そういう人だよ」


 鶴岡は穏やかな口調ながら、異様に確信を持った口調で言い切った。


「いやぁ、あの人が自殺するなんてねぇ……熊川さん、本当にそれって自殺なんですかねえ? なにかこう、直前に変わったこととかはありませんでしたかね?」

「変わったこと、ですか…………そう言えば、前日に面会に来た人が——」


 熊川は懐のポケットから手帳を取り出してぺらぺらとページをめくる。

 その最後のページであろうか、熊川の大きな手が止まった。

 面会者、鳩ヶ谷妙見。


「はとがや……たえみ? ですかね……家族ではないんでしょうが、下着と、あと本を差し入れたそうですが」

「熊川さん、その人の名前、鳩ポッポの鳩にカタカナのケ、山超え谷超えの谷に、奇妙の妙に『見る』っていう字じゃありません?」


 木常ママが人差し指を頬に当て、なにかを思い出すかのような仕草で熊川のやや困ったような顔を見上げた。


「はい、その字で間違いありません」

「鳩ヶ谷妙見、名前は『たえみ』じゃないですよ、『みょうけん』って読むんです。その女、歓喜観音会(がんぎかんのんかい)の教祖ですよ」


 田貫も鶴岡も、そして居合わせたミマとチーママ、マコも視線をママに向けた。

 ママである木常は、周囲が不思議に思うほど博識だ。

 最新のAIに関するトレンドから、昭和の骨董品に関する情報、さらには文化、風習、宗教、政治に至るまで『何でそんな事知ってんの?』と問われることなど日常茶飯事というくらいに雑学が豊富である。


「まぁ、長いこと水商売やってると、色々と情報が耳に入ってくるのよ。それで? その妙見(みょうけん)って女、確か年齢不詳の美女で、不老長生(ふろうちょうせい)権化(ごんげ)、みたいに言われてるんだったかしら? ねぇマコちゃんどうだったっけ?」

「や、ママ私しらないって……まぁ、ガンギマリ会がなんていうか仏教系? の新興宗教で、やたらカネ集めてて? 煩悩(ぼんのう)を捨てられるクスリ? 的な? ナニかを売ってるっていう話は聞いたけどぉ」


 チーママ伊立も、木常ママ同様に『仕事と受験と日常生活に必要ない知識』は非常に豊富だ。

 雑学は客商売、それも酔客相手の相手をするときに、少しでも酒を飲ませるため会話を弾ませる武器になりうる。

 彼女たちは、世間一般に思われるよりも遥かに知識と教養が要求される立場にあるのだ。


「なんであのセクハラオジさんの面会に、ガンギマリ会の教祖サマが行くんだろ?」

「あらマコちゃん、教祖様が面会に行くんだもの、多分穴熊さんもそのガンギマリ——」

歓喜観音会(がんぎかんのんかい)だよ、ママもチーママも」


 苦笑しながら、テーブル席から鶴岡が口を挟んでくる。


「そうそう、そのガンギマリ観音会の信者だった、ってことじゃないかしら」

「やー、でもぉ? ほら、お薬キメてる団体だったら、ガンギマリで良くないかなぁ? ツルさん、ガンギマリって知ってるぅ?」

「もちろん、知ってるよぉ? チーママが何回か話してたしね? ねぇ? タヌさん?」

「いやぁ、どうだったっけ……ミマちゃんは知ってる? キメるとかって」

「あ、ハイ、知ってマす。講師のセンセイとか、センパイとか、眠っちゃダメな時に無水カフェイン飲んデ、『カフェインキメる』って」

「こうやって、変な日本語が広がってくんだろうなぁ……」

「あと、パパカツとか、パキるとかって聞きマす」

「ミマちゃん? あのね、それあんまり良い日本語じゃないからね? あんま人前で使っちゃダメだよ?」

「あ、ハイ、わかりマした……」


 ミマが申し訳無さそうな顔でうつむいたのを見かねてか、テーブル席から鶴岡が助け舟をだしてくる。


「そう言えばミマちゃん、こないだ来たあの大学のセンセイ? かな? 彼はどうなったの? まだ大変なのかな」

「あ、鷺宮センセイ、あの、警察のところに行っテ、全部話すッテ言てマした。昨日は大学にいナくて、実験おやすみでシた」

「あら、そうなの? 良かったわ、踏ん切りついたのね」

「良かた、デスか?」


 木常ママのホッとしたような表情に、今度はミマが不思議そうな顔を向けた。

 ミマにとっては、上司の不祥事を警察に告発するなど、失職に直結する行為だ。告発しようと考える事自体、中国のミマの生まれ育った地域ではあまり考えられないことだった。


「そうそう、良かったよ。だってさ? そんなパワハラ? アカハラだっけ? そういうヤなオジさんの下にいたって、使い潰されるだけじゃない? だからね、そういうダメな上の人間はツブさなきゃダメなの。ねー? ママ?」

「そうねぇ。ま、今から色々大変なこともあると思うけど、少なくともこないだみたいに、『おかえり』って言われただけで泣けちゃうような追い込まれ方だと、近い内に本当に潰れちゃうわね。まだ若いんだもの、どうとでもなるわよ」


 木常はなぜか嬉しそうに笑みを浮かべ、手元のグラスに自分で作った、ミネラルウォーターの親類のような薄い水割りを一口喉に流しこみ、カウンターで突っ伏してしまった熊川の短い髪を優しく撫でた。

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