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14 追い詰められた男

 スナックFOXに新規の客が来る、という事はそう多くない。基本的に田貫や鶴岡ら、少数の常連によって支えられているような店である。

 そんな店に、新規の顧客がやって来たのは、鶴岡が『奢ってあげよう』と語った翌日のことである。


(ハク)さんがバイトしてるお店……なんですね」

「はい。今日は私モお客さん、で良いンデスか? ママ?」

「良いの良いの。ほら、こういう商売用の露出の多いドレスとか、知り合いに見られるのもちょっと、ね? だから今日はミマちゃんじゃなくて、お客様の美真(びしん)ちゃん。タヌさんもゴメンねぇ? 今日はミマちゃんじゃなくて」

「いやいやママ、何言ってんの。気にしないで」


 相変わらずカウンターのいつもの席で、いつものハイボールを飲んでいる田貫の正面にいるのは、ジェニーと無口な寅之介のふたり。

 チーママの伊立は相変わらず鶴岡の隣でシャンパンのご相伴に預かっている。


「じゃあご新規の鷺宮センセイ、だったかしら? お飲み物は何になさいます? 今日はあちらの、ここの最長老のツルさんの奢りだそうよ?」

「あ、あの、本当に良いんですか? 本当に僕はあんまりお金持ってませんが……」

「あぁ良いの良いの。ちょっとね、臨時収入が入ったんだけど、ただのあぶく銭だからさ。こういうお金はみんなで楽しむためにパッと使っちゃった方が良いかなって思ってね。どうぞどうぞ、遠慮しないで」

「あの、でもその、初対面の方にそんな……」

「初対面ではあるけどさ、ほら、ミマちゃんのお知り合いなんでしょ? だったらさ? あれ、なんだっけ、友達の友達はみな友達だ、だったっけか?」

「ヤだツルさん、それ懐かしい……『笑っていいとも』のでしょ?」

「おや、さすがママは雑学女王だねぇ。そうそう。まぁそんなワケだからさ、遠慮しないで。さみしい老人はね、たまーにこうして若者にパッと奢ってチヤホヤされたいモンなんだよ」


 人懐っこそうな、いかにも好々爺といった印象しか抱かせない小柄な老人は、そう言うとひょいとワイングラスを掲げる。


「まぁ、疲れが溜まってるなら、オススメはママの梅酒かな? ソーダ割りにすると美味いよ?」

「そうデス! ママが作った梅酒、美味しイんデス! センセイ、梅酒、お好きデスか?」

「は、はぁ……あの、本当に良いんですか……?」


 まだ不安そうな鷺宮が恐る恐るカウンター奥の寅之介をちらりと見上げる。

 どう見てもカタギに見えない若者は、無愛想で無表情なまま『心配いらないッス』とでも言いたそうな顔で小さく頷くと、カウンターから梅酒の瓶を取り出して木常ママに手渡した。


「ゴメンなさいねぇ? この子、寅ちゃんっていうんだけど、無口で無愛想で無表情なの。客商売なのにねぇ? まぁ、本当に心配しないでくださいな。ツルさんは、ちゃんと言ったことは守る人だから。ね?」

「もちろん。あぁ、タヌさんも次の一杯、好きなの頼んで。僕からの奢り」

「え? 良いのツルさん? じゃあどうしようかな、久々に僕も梅酒のソーダ割りもらおうかな」


 木常が慣れた手つきで素早く酒を作り、鷺宮と田貫、加えて美真の前に差し出した。


「さぁてそれじゃあお決まりのアレね。鷺宮さん、お帰りなさい」

「お帰りなさーい」


 木常の声に唱和するように、美真や伊立、それにジェニーもグラスを掲げて声を上げた。

 鶴岡と田貫も、人の良さそうな笑顔を浮かべている。

 鷺宮にとって、実に数カ月ぶりに『誰かから歓迎された』瞬間であり、数年ぶりに聞く『お帰りなさい』の声だった。


「鷺宮センセ? あの、大丈夫デスか?」

「——え?」


 梅酒のソーダ割りを一口飲んだ鷺宮は、自分でも気付かない内に涙を溢れさせていた。

 

 高校卒業と同時に、島根県の実家を出てから東京都内の大学へ進学、そのまま大学院から大学講師と、ずっと地元に戻る暇もなかった。

 自身も奨学金や授業料免除を受けながらの苦学生だったこともあり、故郷から遠く離れて働きながら大学に通う白美真のことは、鷺宮にとっても気がかりな教え子だ。

 そんな教え子に気遣われた上、見も知らない常連からの優しい言葉に、商売(ビジネス)とは言え女性からかけられる『お帰りなさい』の言葉は、鷺宮の疲れ果てた心を深く抉ることになった。


 美真も鷺宮とは実験室や講義室で会う程度で、プライベートのことは何も知らない。

 ただ、日頃から鷺宮が准教授の鷲崎からのパワハラ、アカハラに苦しめられている事は度々目にして知っている。


 鷺宮から見て似た境遇である美真にとっても、理不尽な扱いを受けている不遇な鷺宮は他人とは思えなかった。

 だからこそこうして、多少無理を言ってでも自身のバイト先でもあるスナックFOXへと連れてきたのだ。


 美しく優しい夜の蝶たちのねぎらいと歓迎の言葉、そして僅かなアルコールが、鷺宮の心を縛り付ける鎖を緩めるのも当然のことであった。

 しばらくカウンターで泣きながら飲んでいた鷺宮だったが、時間が経つに連れ席が奥へと移り、テーブル席で鶴岡とチーママ伊立に挟まれてワインとチーズをちびちびと口に運ぶようになると、だいぶ意思の抑制も弱まったのだろう、とんでもない一言を口走ってから背もたれに体を預けて目を閉じてしまった。


「鷲崎准教授は、大学の薬物保管庫から麻薬の原料を密かに持ち出している」


 その言葉に青ざめたのは、薬学部3年生の美真だけではなかった。

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