12 キャンパスライフ
薬学部の実験は、ときにかなりの時間を要する物も多い。
中国の名門、四川大学を卒業してから日本への留学を決めた才媛、白美真を持ってしても『時間のかかる実験』はどうしても時間をかけざるを得ない。
今日の課題は時間を要するものであったため、美真が後片付けを終えたときには、すでに外は真っ暗になってしまっていた。
「白さん、一応薬剤の残量、確認してもらえるかな」
「あ、ハイ、わかりマした」
美真の指導を担当している薬学部講師、鷺宮は相変わらず血色の悪い顔で、時折ふらつきながら実験器具をチェックしている。
「鷺宮センセイ、だいじょぶデスか? 具合悪いデスか?」
「え? あぁ……いや、大丈夫です」
どう見ても大丈夫ではない顔色で、鷺宮はポケットから白い粉薬のような物が入った包を取り出すと、迷うこと無く口に入れてペットボトルのコーヒーで喉に流し込んだ。
「怪しいクスリじゃないですよ。ただの無水カフェインです」
「あ、あの、カラダに良くナイです……」
「まぁ、そうですね……とりあえず、白さんはそっちの薬剤の残量チェックしたら、試薬をこっちのテーブルに置いといてください。あとは僕がやりますから」
「ハイ」
美真はちらりと指導講師の鷺宮へ視線を向ける。
ふらふらと、どこか危なげな足取りで試薬の瓶を保管庫へ運ぶ様は、今にも崩れ落ちそうだ。
薬学部の准教授である鷲崎のもとでまるで奴隷か使いっ走りのように扱われ、大学からの給与もそう高くはない。
毎日のように大学に泊まり込んでいて、食事は全て学食で済ませる有様であるという噂だ。
「あの、鷺宮センセイ、何かお手伝いスルこと、あるデスか?」
「あぁ、ありが——いや……大丈夫です。そっち終わったら、もう帰って大丈夫ですよ」
「でもセンセイ、すごく具合ワルそうです」
「何だね、まだ残ってたのか、まったく」
実験室の入口から、かなり棘のある口調の言葉が投げ込まれる。
美真と鷺宮が視線を向けた先にいるのは、鷺宮の上司に当たる准教授、鷲崎だ。
その名の通り、まるで猛禽類のようなギョロギョロとした鋭い目を実験室の中に向けると、忌々しげなため息を吐いて気弱そうな鷺宮を睨みつける。
「さっさと済ませろ。まったく……それに君、生徒がいつまでも残ってるんじゃない。さっさと帰りなさい」
「あ、アノ、でも——」
「何だ? 君は留学生か? ……あぁ、君がアレか、水商売のバイトをしているという中国人か。まったく、良くそんな汚らわしいバイトをする暇があるものだ。そんな暇があるなら勉強でもしていれば良いものを。ほら鷺宮、手が止まってるだろうが。さっさとしろ。私はもう帰るからな」
「はい……お疲れ様でした」
ふん、と吐き捨てるように言い残して、鷲崎はかつんかつんとわざとらしく足音を立てて教室から遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなるまで、美真も鷺宮も身動きが取れなかった。が、先に自身の制御を取り戻したのは『汚らわしいバイト』で接客経験も豊富な美真である。
「あの、鷺宮センセイ、やぱり手伝いマス」
「……すみません、それじゃあそっちのテーブルの試薬をこのトレーにまとめておいてください。ってそうだ、薬品名とかは大丈夫ですか?」
「ハイ。漢字書いてルの瓶は大丈夫です。化学式も書いてルのは、全部ワカるです」
「あぁ、そうでした。白さんは中国の出身でしたね」
「ハイ。でも日本の漢字、簡体字と全然違ウですし、意味も違うカラ難しい」
「そうなんですね……あぁいけない、早く片付けないと」
美真が手際よくトレーに薬剤の瓶を収め、鷺宮がトレーを保管庫にしまい込む。
協力作業のお陰で、准教授の鷲崎が作業の邪魔をしに来てからわずか15分で、実験室の施錠まで完了した。
「すみません、助かりましたよ」
「いえ、鷺宮センセイだいぶ疲れてルですから、薬品扱うの危ないです」
「そうですよね……うん、気を付けます」
苦笑を浮かべながら鷺宮は廊下の奥にあるジュースの自動販売機に歩み寄る。
「手伝ってくれたお礼に、1本どうですか?」
「あ、ありがとうごザイます」
迷うことなく、角砂糖換算すると飲む気が失せそうな甘いカフェオレを美真に手渡すと、鷺宮はカフェオレの倍以上の糖分が入ったエナジードリンクの栓を開ける。
「あの、鷺宮センセイ。最近あの、駅で変なピンクの錠剤配ってル人いるの、ご存知してマスか?」
「駅で、錠剤……あぁ、何かこう、どぎつい色のですよね? まさか白さん、あの錠剤受け取ったりしてませんよね? ダメですよ? あれ絶対危ないクスリですからね?」
「はい、わかてマス。ただ、知り合いの子がそのクスリを無理ヤリ鞄に入れラレたみたいです」
「そう……ですか……そんなことまでするなんて……」
鷺宮はエナジードリンクをちびちび飲みながら、『まさか本当に』『でもやっぱり』『こんなこと知られたら』とぼそぼそと呟き始めた。
極度の疲労と睡眠不足のためか、目の焦点もやや合っていない。
しばらくうつむいて呟き続けた後、唐突に美真の存在を思い出したように顔を挙げる。
血の気の失せたような疲労困憊の表情は、妙に老けて見えるものだ。まだ30歳にもならない鷺宮健太の顔は、40代と言われても違和感を抱くものは少ないだろう。
「す、すみません。忘れてください」
「あの……鷺宮センセイ?」
「大丈夫です。あとは僕一人でやりますから。それじゃあ白さん、お疲れ様でした」
半ば強引に会話を打ち切るように、鷺宮は一気にエナジードリンクを飲み干すと、まるで逃げ出すかのような勢いで、早足で薄暗い実験棟の奥へと消えていった。




