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触れた熱

ミナと出会ってからの数日間、カイは人生で初めて「定義できない時間」を過ごしていた。

朝、ギルドの自席に座り、無機質なデスクを立ち上げる。画面には、昨日までなら数秒で片付けていたはずの「謝罪文の校正」や「祝辞の編纂」が並んでいる。だが、指が動かない。

【深い悲しみ】という単語を選択しようとするたび、あの温室で見た、インクの染みがついたノートが脳裏をよぎる。

(……悲しみ。本当に、これだけで足りるのか?)

仕事が終わると、彼は吸い寄せられるように街の外れの温室へ向かった。

それはもはや「任務」ではなかった。彼は自分の喉の奥に居座る「違和感」の正体を知りたがっていた。

「あ、また来た」

ミナは、いつものように植物の影でノートを広げていた。

数日が経ち、彼女はカイを「代弁者」としてではなく、ただの「カイ」として扱うようになっていた。ある日は、庭に咲いた名もなき花に触れながら、こんな話をした。

「ねえ、カイ。この花、なんて名前だと思う? ギルドの図鑑には『配植番号502』って書いてあるかもしれないけど、私には、今日だけ『寂しがり屋の黄色』に見えるんだ」

「そんなの、言葉の定義を壊すだけだよ。共通の認識がなければ、言葉は伝達の道具にならない」

カイはデバイスを操作して反論しようとしたが、彼女はくすくすと笑った。

「道具じゃなくて、プレゼントだと思えばいいのに。……ほら、これ。あげる」

差し出されたのは、彼女がノートの端をちぎって書いた、走り書きのメモだった。

そこには言葉ではなく、不格好な「雨上がりの虹」の絵が、青と黄色のペンで描かれていた。インクが指について、カイの白い袖口を小さく汚す。

(汚れた……)

いつもなら即座に洗浄キットを取り出すはずだった。だが、カイはその汚れを、じっと見つめ続けた。それは街のどこにも存在しない、彼とミナの間だけに生まれた「ノイズ」だった。

帰り道、夕暮れの街を歩きながら、カイはスピーカーから流れる人々の会話に耳を澄ませた。

《素晴らしい夕景ですね》《はい、心の平穏を感じます》《同感です》

昨日まで、それは安らぎを与える音楽のように聞こえていた。

だが今は違う。それは、録音された音を再生し続けるだけの、壊れたオルゴールの合唱に見えた。

「……僕たちは、何を守っているんだ?」

独り言を呟いた瞬間、自分の喉が微かに震えた。

チップを通さない、剥き出しの声。

それはひどく小さく、誰にも届かないものだったが、カイにとってはどんな大演説よりも重く、腹の底に響いた。

カイの書くスクリプトは、確実に「純度」を失い始めていた。

そして、ミナと出会ってから数カ月が

 経過した。カイは自室で一人、深夜の執筆作業に没頭していた。

窓の外には、完璧な色彩設計に基づいた街の夜景が広がっている。街灯のひとつひとつまでが計算され、市民に「安らぎ」を与える波長で発光していた。

「……さて、次の仕事だ」

カイは指を動かす。今回の依頼は、街の有力者からの「亡くなった妻への追悼の辞」だ。

これまでは、数秒で終わる作業だった。アーカイブから「慈愛」「永遠」「感謝」のタグが付いたフレーズを抽出し、それらを最も品位ある順序で並べ替えればいい。

だが、画面上に並んだ【君の面影は、私の心の中で永遠に輝き続ける】という完璧な一文を見た瞬間、カイの指が凍りついた。

(……輝き? 本当にそうか?)

脳裏をよぎったのは、もう何度も目にしたミナの汚れたノートだった。

そこに書かれているのは、整った文字列ではない。筆圧で紙が凹み、感情が溢れて文字が躍り、インクの染みがついた「生」の痕跡。

その瞬間、カイの記憶の底から、自分でも予期せぬ「ノイズ」が這い出してきた。

それは幼い頃、風邪を引いた自分を看病してくれた母親の、ひどく疲れた顔だった。薬の苦さと、寝室に漂っていた淀んだ空気。そして、母がこぼした「もう、疲れちゃったわね」という、およそ追悼には不向きな、救いのない呟き。

「……っ」

カイは無意識にキーボードを叩いていた。生成AIが提示する「最適解」を削除し、指が勝手に動くままに、喉の奥にこびりついていた言葉を吐き出した。

『彼女がいなくなって、世界から色が消えた。それは論理的な喪失ではなく、私の内側が黒い泥で埋まり、ゆっくりと腐り落ちていくような感覚だ。あの不快な咳の音さえ、今の私にはこの街のどんな音楽よりも必要だった』

書き終えた瞬間、画面が真っ赤に点滅した。

【警告:不適切な表現が含まれています。抑うつ指数 84% 超過。倫理規定違反】

「ハァ、ハァ……」

カイは自分の肩が激しく上下していることに気づいた。

心拍数は跳ね上がり、視界が歪む。システムが自動的に文章を「漂白」し、元の無機質な追悼文へと書き換えていく。

だが、カイの目には、書き換えられる直前の一瞬、確かに自分の言葉が画面上で「生きていた」のが見えた。

それは、どれほど高価なスクリプトよりも醜く、そして、目を逸らせないほどに鮮やかだった。

(これが……僕の声なのか?)

彼の中に生じた小さな亀裂は、もう二度と塞がることはなかった。

代弁者としてのエリート街道が、足元から音を立てて崩れ始めていた。 

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