ノイズの発見
ミナは、街の端にある古い温室にいた。
街の喧騒から離れた、錆びついた鉄格子の向こう。そこは、管理された植物園ではなく、ただ「生えるに任せた」植物たちが侵食する古い温室だった。
カイは、その場所の空気に顔をしかめた。
街の空気は常に一定の湿度と温度、そして「清潔な無臭」に保たれている。しかし、ここは違う。湿った土の匂い、朽ちていく葉の甘ったるい腐敗臭、そして、得体の知れない「野性」が鼻腔を突く。
その緑の迷宮の奥、日の光が斑に落ちる場所に、**「検体」**はいた。
(……あれが、ミナか)
カイは無意識に、エリート代弁者としての「鑑定眼」を起動させる。自分の完璧なキャリアに添えられるべき「報酬」
カイは努めて穏やかな、訓練された「安心感を与えるトーン」で語りかけた。同時に、手元のデバイスを操作し、彼女の年齢とスコアに最適化された【初対面用:親愛と信頼のスクリプト】をスピーカーから流す。
《君の寂しさを理解したい。言葉という光で、君の心を照らす手伝いをさせてほしい》
洗練された電子音声が、静かな温室に響き渡る。だが、ミナは視線すら上げなかった。
彼女は床に座り込み、古びたノートに何かを執拗に書き付けている。
(……反応なし、か。典型的な失語症とは違うな)
カイは冷静に、頭の中で彼女の「故障度合い」を診断していく。羞恥心、あるいは過度の緊張。それらを取り除き、適切な語彙をプラグインしてやれば、この「不具合」は解消されるはずだ。そうすれば、自分はまた一つ、ギルド内での地位を揺るぎないものにできる。
《ミナさん、聞こえているかな。君の今の状態は、社会的な損失だ。君が使うべき『正しい言葉』は、すでに僕が用意してある》
カイが歩み寄ると、彼女の周囲を埋め尽くす「異物」が目に入った。
この街では、紙にペンで文字を書くなど、非効率的で野蛮な行為だとされている。しかし、彼女の手元には、使い古された万年筆と、裏表まで真っ黒に埋まった紙の山があった。
「……ねえ、あなた、誰?」
ミナがノートをこちらへ向けた。
それは、フォント化された完璧な文字列とは対極にあるものだった。
筆圧が強すぎて紙が少し凹んでいたり、迷った跡のようにインクが丸く滲んでいたりする
その「不器用な跡」が、整然と並ぶ電子文字よりも、なぜか暴力的なまでの熱を持って迫ってくる。
「……なんだ、これは」
カイの喉から、用意されたスクリプトではない、素の言葉が漏れた。
それは彼にとって「汚れ」そのものだった。だが、同時に目が離せないほど、生々しい。
「…私の……さっき、心臓がバクバクしてた時の、そのまま。変な字だよね、自分でもそう思う」
ミナは少し照れたように、でも大切そうにノートを抱え直した。その瞳は、街の人間たちが持つ「計算された穏やかさ」とは程遠いものだった。
カイは背筋を伸ばし、淀みなく答えた。
《中央公認代弁者ギルド、一級編纂官のカイです。君の更生プログラムを担当することになりました》
「カイ……」
ミナは、その響きを確かめるように小さく呟いた。それから、不思議そうに彼の手元にあるデバイスを見つめる。
《……まずは、この『親和性パッケージ』から試してみよましょう。貴方の心拍数に合わせて、一番心地よく響く語彙が選ばれるようになっています。これを使えば、君も無理に筆を動かさなくて済みます。君のスコアは回復し、また社会に戻れるでしょう》
《私は、この静かな場所が好きです。あなたと分かり合えることを、嬉しく思います》
端末から流れる合成音声は、非の打ち所がないほど澄んでいた。
「……ねえ、カイ。さっきから、その機械がずっと喋ってるけど」
彼女は、最新式の代弁デバイスを、まるで奇妙な深海魚でも見るような目で見つめた。
「……さっきの『カイ』っていうのは、あなたの声だったけど。その機械の声は、誰?」
「誰、とは……。先ほども言った通り、これは僕が編纂した、最も誠実で親和性の高い——」
「ううん、そういうことじゃなくて」
ミナは言葉を遮るように首を振った。少しだけ前のめりになり、カイの顔を覗き込む。17歳の少女らしい、真っ直ぐで、隠し事のできない瞳だった。
「その綺麗な声の、もっとずっと後ろに隠れてる人。……さっきから、あなたは一度も、自分の声で喋ってないよ。誰かが作った立派な文章を、ボタンで再生してるだけ。それじゃあ、目の前にいるのが『カイ』じゃなくて、他の誰かだったとしても、全然変わらないじゃない」
「それが、僕たちの誇りある仕事なんだ」
カイは反射的に、自分に言い聞かせるように言い返した。
「言葉から不純物を除いて、誰も傷つかないように、誰からも嫌われないように……。僕は、この街の平和を守る『代弁者』なんだよ」
ミナは、少しだけ悲しそうな、それでいてどこか見透かしているような、複雑な笑みを浮かべた。
「平和、かぁ。……でも、そんなの、中身が空っぽなだけだよ。貴方が持ってきてくれた言葉、すっごく立派で、間違ってないのはわかるよ。でも……」
彼女は、自分の喉元にそっと手を当て、そこから絞り出すように言葉を続けた。
「……それって、私の喉を通るとき、何の味もしないの。熱くも冷たくもないの。それって、なんだか怖くない?……生きてる感じが、全然しなくて」
ミナの言葉には、トゲはなかった。
ただ、冷たい水がじわりと染み込んでいくように、カイが信じていた「正解」を、内側から溶かしていくような響きがあった。
「ねえ、カイ……⋯。貴方も、本当は怖くないの? いつも誰かが決めた言葉を喋って……自分の声が、どこにあるのか分からなくなっちゃったり、しない?」




