第10話 魔女のパン屋
翌日。
薄いカーテンの隙間から、朝の光が差し込む。
体に疲れは残っていない。いつも通り。
簡単に身支度を整えて、部屋を出る。
階段を降りると、宿の一階はすでに賑わっていた。
朝食を取る冒険者、依頼の話や情報交換する声。
いつもと同じ光景。
宿の外に出る。
朝の空気は澄んでいる。
血の臭いも、土の湿り気も存在しない。
ただの街だ。
何も考えず、人の流れに身を任せる。
ぶつかることもない、朝の散歩。
(ねえ)
ソエルが内側から声をかけてくる。
(今日はどうするの?)
(特に決めていない)
鎧が出来るまでは、やれることは限られる。
何も考えずに歩いていると、通りから鼻腔をくすぐる香ばしい匂いがしてくる。
何だ、この匂いは。
香ばしくて、甘い。
……焼きたてのパンだ。
その匂いにつられて、足が勝手に向かっている。
(スノウ、どこに行くの?)
(パンが呼んでいる)
(はい?)
嗅覚は、他の感覚よりも鋭い。
意識しなくても、つい匂いを拾ってしまう。
だが、それが不快に感じることはない。むしろ、その感覚が気に入っている。
特にお茶や珈琲の香りは好きだ。
鼻を抜けるあの感覚が、心を落ち着かせてくれる。
匂いを辿っていくと、通りの角に小さなお店を見つける。
“魔女の麦畑”
営業日や時間帯が不定期で、いつ空いているかわからない。
看板の名前の通り、魔女が作っているという噂のパン屋だ。
扉の向こうから、甘く香ばしい匂いが漏れている。
今日は朝からついている。
ゆっくりと扉を開けると、全身にパンの匂いが染みこむ。
時が止まり、体と心が幸せの香りで包まれる。
(スノウ?おーい?)
(やばい、ここに住みたい)
(パン屋は、宿屋じゃないわよ)
(……ここは天国だ)
視線が刺さる。
「冷やかしなら、とっとと店から出て行きな」
魔女のイメージとかけ離れた、恰幅の良い女主人に声をかけられる。
「パンの幸せな匂いで、意識が飛んでました」
「そうかい!あんたわかってるじゃないか」
さっきまでの軽い怒号と違って、言葉は柔らかくなっている。
「こんな素敵なお店、早く来れば良かった」
「嬉しいこと言うねぇ。本業は魔女だから、たまにしか開けないのさ」
魔女?……どう見ても戦士だが。
「いま、失礼なこと考えてなかったかい?」
「そっ、そんなことないですよ」
レジの上に飾ってある謎のバトルアクスも悪い。
初見で魔女って絶対分からない。
「持ち帰りかい?食べていくのかい?」
店の中には、食べれるスペースがある。
「食べていきます」
「好きなパンを選びな。紅茶はサービスだ」
最高の朝食じゃないか。
(今日のスノウは浮かれてない?)
(そんなことはない)
自分がもし紅茶なら……恋人や結婚相手は焼きたてのパン、焼き菓子であって欲しい。
そんなことを、ふと考えてしまう。
木の棚に並べられたパンは、どれも焼き色が美しい。
香りだけで、どれも美味しいと分かる。
「……迷うな」
「さっさと決めな」
女主人が腕を組んで見ている。
「じゃあ、これと……これも」
気づけばトレイの上にいくつも乗せていた。
「へぇ、いい選び方するじゃないか」
「匂いで決めました」
「上等だ」
女主人は軽く笑う。
席に着くと、すぐにパンを一口。
表面はこんがり、中はしっとり。
「……」
言葉が出ない。
(どう?)
(……やばい)
(語彙力が死んでるわよ)
(これは仕方ない)
もう一口。
甘さと香ばしさが、ゆっくりと広がる。
「……美味しいな」
思わず声に出ていた。
「だろう?」
女主人が、いつの間にか近くに立っていた。
そのまま、コトン、とカップを置く。
紅茶の香りがふわりと立ち上がる。
そして、もう一つ。
間を置かず、同じカップが置かれた。
「……?」
自然と、二つ目のカップに視線が向く。
「サービスだよ」
女主人はそれだけ言う。
「いや、一人なんですけど」
「知ってるよ」
あっさり返される。それ以上は何も言わない。
ただ、口元がわずかに緩んでいた。
(……ねえ)
(ああ)
(これ、完全にバレてるよね)
(だろうな)
紅茶の湯気が、ゆっくり揺れる。
もう一つのカップ。
誰も触れていないのに、そこにあるのが自然に見える。
「飲まないのかい?」
女主人が、何気なく言う。
視線は向けていない。
だが、確実に分かっている。
女主人の視線が、ほんの一瞬だけ手元に落ちた気がした。
「……いただきます」
スノウは自分のカップを手に取る。
(私、飲んでも大丈夫?)
(任せる)
少しの間。
やがて――
隣のカップが、ほんのわずかに揺れた。
第10話です。
魔女のパン屋はリライトでは必ず入れる予定でした。
今後のストーリーにも絡む魔女のおかみさんですね。
焼きたての美味しいパン……正義です。
また明日も投稿します。いいね、感想もよろしくお願いします。




