第8話 神様の、思い出話。
辰さんは、飲みかけのコーヒーをひと口すすった。
カップを皿に戻す小さな音が、店内に落ちる。さっきまで五人のテーブルに漂っていた、冗談めいた空気はいつの間にか薄くなり、わずかな緊張感すら漂っていた。
「常土山の土を守っとる神様のことよ」
辰さんは、そう言ってから、ゆっくりと話し始めた。
「昔はな、常土山にいらんもんを捨てる者がおったらしい」
「いらんもん?」
珠美が小さく聞き返す。
「壊れた道具とか、汚れたものとか、まあそういう使えんようになったもんとかじゃろうな。今みたいに何でもきちんと捨てる場所があった時代じゃないけえ、山の中に置いてくる者もおったんよ」
辰さんの声は、怖がらせようとしているわけではなかった。けれど、妙に耳に残る声だった。
「ところが、それがいつの間にかなくなる。誰が片づけたわけでもない。風で飛んだんか、獣が持っていったんか、土に埋もれたんか。今となっては分からん。ただ、捨てた者からすれば、山が勝手に片づけてくれたように見えたんじゃろうな」
店主のおばあちゃんが、カウンターの中で「まあ」と小さく言った。
「それで、みんな調子に乗ったん?」
「そういうことよ」
辰さんは頷く。
「ひとりが捨てる。ふたりが捨てる。そのうち、あそこに置いてくれば勝手になくなる、いう話になる。そうして常土山は、いらんもんを置いていく場所にされてしもうた」
蓮の頭に、常土山の光景が浮かんだ。
落ち葉の下の湿った土。木の根。小石。掘っても掘っても出てこなかった半斗缶。
「けどな、山は何でも飲み込んでくれるわけじゃない」
辰さんの声が、少しだけ低くなった。
「そのうち、雨のあとに川の水が濁るようになった。畑に変なものが流れ着くこともあった。規模の小さい土砂崩れは何度も起きたし、山の獣が里の近くまで降りてきて、作物を荒らしたこともあったらしい。山菜も木の実も、前ほど採れんようになった」
「……それって」
三咲が、ぽつりと言った。
「山に捨てたものが、別の形で戻ってきたってこと?」
「そう言われとる」
辰さんは、三咲を見る。
「昔の人は、それを土守さんが怒ったんじゃと考えた。山の土を汚したけえ、土守さんが怒って、捨てたもんを形を変えて返したんじゃとな」
土守様。
山に物を置いていくと、持っていって隠してしまう神様。
弥太郎の祖父から聞いた時には、ただの怪談のように聞こえた。けれど辰さんの話す土守さんは、もっと生活に近いところにいるもののようだった。
「それで、山に物を捨てるのをやめたんですか?」
蓮が尋ねると、辰さんは「そうじゃ」と頷いた。
「山を汚すのはやめよう。いらんもんを押しつけるのはやめよう。そう言って、昔の人らは常土山を大事にするようになった。土守さんを祀って、年に一度、感謝の供え物をするようにもなった」
「供え物?」
柑奈が小さく聞いた。
「米や野菜や酒や、季節の菓子なんかじゃったらしい。山にいらんもんを捨てるんじゃなくて、山からもらったもんに礼をする。そういうことじゃな」
辰さんは、そこで少しだけ目を細めた。
「すると、山はまた恵みを返してくれるようになった。水は澄んで、山菜も採れて、木の実もよう実った。だから年寄りはよう言うとったよ。土守さんは、山を汚す者には怒る。けど、山を大事にする者には、ちゃんと返してくれるんじゃと」
辰さんはそこで言葉を切った。
店内には、コーヒーの匂いと、古い時計の針が進む小さな音だけが残る。
「まあ、昔話じゃけどな」
最後に辰さんは、照れ隠しのように笑った。
「けど、常土山にいらんもんを置いて帰るな、いう教えにはなっとったんよ。木々の間に隠しても、土に埋めて隠しても、消えるわけじゃない。山に押しつけたもんは、いつか形を変えて戻ってくる。そういう話じゃ」
* * *
メキシカンを出ると、外の光がやけに白く感じた。
店の中に満ちていたコーヒーの匂いと辰さんの低い声が、まだ身体のどこかに残っている。ついさっきまで笑い話だったはずが、何か重さを持ち始めていた。
商店街を抜け、五人はなんとなく海沿いの道へ出た。
連休の昼過ぎだった。海沿いの通りには、観光客らしい人たちの姿もちらほら見える。カメラを首から下げた夫婦。ソフトクリームを持った子ども。どこかの店先から聞こえる呼び込みの声。山の中で土を掘っていた時間が、少し遠いことのように思えた。
「土守様、思ったよりちゃんとした話だったね」
最初に口を開いたのは珠美だった。
「正直、弥太のおじいちゃんの新作怪談だと思ってた」
「俺もそう思ってたよ」
弥太郎が頭をかく。
「まさか他に知ってる人がいるとはなあ。じいちゃん、たまには本当の話もするんだなって驚いたよ」
「たまにはって」
三咲がくすくす笑う。
「弥太郎くんのおじいちゃん、かわいそう」
「いや、だってこの前なんか、町内会の会長は昔スパイだったとか言ってたんだぞ。信じられるか?」
「それは逆にちょっと信じたい」
「信じるな、珠」
蓮がそう言うと、珠美はハハッと笑った。
けれど、笑いはすぐに小さくなる。
話題がどこへ向かっても、結局は同じ場所へ戻ってしまう。常土山。掘っても見つからなかった半斗缶。土守様。
「お供え物でもしてみるか?」
弥太郎が、海の方を見ながら言った。
「お供え物?」
柑奈が聞き返す。
「ほら、辰さんが言ってただろ。土守様は、山を大事にする人にはちゃんと返してくれるって」
「それで?」
「飴とかまんじゅうとか供えたら、タイムカプセル返してくれるかもしれねえじゃん」
「完全に神頼みじゃん」
珠美が呆れたように言った。
「でも現状、それ以外の方法ってなんかあるか?」
「それは……そうかも」
三咲が困ったように笑う。
蓮は黙って海を見た。
波は穏やかだった。防波堤の向こうで、白く小さな波が崩れている。潮の匂いが、風に混じって届いた。
お供え物をすれば、土守様が返してくれる。
もちろん、本気にしているわけではない。けれど、今はその冗談を笑い飛ばすだけの元気も、あまり残っていなかった。
「まあ、今日はもう無理だろ」
弥太郎が伸びをしながら言った。
「俺、さすがに腕が限界」
「パワー担当、燃料切れ早すぎ」
「燃料は昼飯で補給した。問題は機体のダメージだ」
「無駄に飛ばし過ぎなのよ、あんたは」
柑奈が小さく突っ込む。
その声が、いつもより少しだけ弱い気がした。蓮がそう思ったところで、三咲がちらりとこちらを見た。目が合うと、三咲は何も言わずに微笑んだ。その笑みを見て、蓮は午前中の会話を思い出す。
誰かが持っていったと思ってる?
胸の奥に、また小さな石が引っかかったような気がした。
「明日はどうする?」
珠美が言った。
「続き、探せる?」
「あー……明日、平日だろ」
弥太郎が顔をしかめる。
「一応学校あるんだよな。連休の間に挟まってさ」
「そうだった」
珠美が絶望したように肩を落とした。
「授業終わってから行く?」
柑奈が言った。それは提案というより、確認に近い声だった。
「行けなくはないけど、山に入るにはちょっと遅くなるかもね」
三咲が首を傾げる。これもまた、可能性の提示というよりも、できない理由の提示のように聞こえた。
「じゃあ、とりあえず未定ってことで」
蓮はそうまとめた。
「放課後にもう一回相談しよう。行けそうなら行く。無理そうなら、また次の日」
誰からも反対意見は出なかった。
海沿いの道の分かれ道で、五人はそれぞれの家の方へ別れることになった。
「じゃあ、また明日」
「うん。また学校で」
そんなやり取りをしながら、珠美と三咲が商店街の方へ歩いていく。家の方向が同じ弥太郎も蓮と柑奈に手を振りながら、二人を追いかけた。
残ったのは、蓮と柑奈だけだった。
「じゃ、とりあえずお疲れ」
蓮がそう言うと、柑奈は少し遅れて「うん」と頷いた。
それだけだった。いつもの柑奈なら、何かひとつくらい余計なことを言いそうな気がした。弥太郎への文句でも、珠美の五万円の心配でも、土守様へのツッコミでも、何でもいい。けれど柑奈は、何かを言いかけたように唇を動かして、それから結局、何も言わなかった。
――柑奈、なんだかちょっと元気ないね。
三咲の言葉が、また頭をよぎる。
蓮は、そのもやもやを振り払うように歩き出した。
まっすぐ家に帰る気分には、なんとなくなれなかった。駅前の方へでも回って、少し人の多いところを歩けば、考えもまとまるかもしれない。
見つからないタイムカプセル。
誰かが持っていった可能性。
土守様。
いろいろな言葉が、頭の中でほどけないまま絡まっている。
その時だった。
「蓮くん」
背後から声がした。




